快答ルパンの冒険 第6回

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■空飛ぶエンタテイメント

快答ルパンは人生の羅針盤、コンパスを持たずに詩歌(しいか)に浸る学生生活を送り、それなりに自由を満喫しているうちに、恋に落ちて結婚。マーケティング・コンサル会社の勤め人となった。
以来13年間も、ひたすら重い荷車を引きながら会社勤めを続けたが、創作意欲が衰えることはなかった。対象が文芸小説から事業企画に移り、サラリーマンでありながらコンセプトを開発する仕事を考案した。
6年間いたコンサル会社から広告制作会社に転職したのが1991年のこと。平日は、朝9時から夜9時まで仕事をする代わり、週末は「別の顔」で生きた。
コンセプトデザイン研究所の名刺を作り、無償で企画の仕事を引き受けた。
そんなライフスタイルをとった関係で、やがて最初のビジネス本を発刊できるチャンスがきた。
1995年の12月にWindows95が発売となり、翌1996年はインターネットブーム。しかし、自力でインターネットにつなげない。だから、ひたすら自力でインターネットにつなぐことだけを解説した本が必要となる。
もちろん、それだけでは本の価値は低い。しかも、どんなに丁寧に書いても100ページほどで、パソコンは自力でインターネットにつながってしまう。それでは街中の書店に並ぶ本の体をなさない。
残りの120ページをインターネットの歴史、へぇ~という話などの工夫を加えた。
その企画が通り、11月に発刊する運びとなったが、接続の説明する部分を除いたゲラが出てきたのがITS世界会議・米国オーランドへの出張直前。しかも2週間の出張から帰国した後、4日間で「完全原稿」に仕上げて印刷所に入稿しなければ間に合わないという。
それでも快答ルパンは、どうしても「自分の本」を書いておきたかった。

スーツケースにゲラを忍ばせ、支度をしてオーランドに向かった。
担当したのは警察庁ブースとITS日本事務局。朝7時に起き、ホテルから展示会場まで歩く。夜8時まで仕事をして、毎晩、クライアントを連れて食事に出た。
事務局にいる外国人のキャプテンとは仲良くなった。
「英語もろくろくしゃべれないのに、よく、ここまで来たね」
と笑われたものの、笑ってごまかした。
実は、快答ルパンは25歳のときにヨーロッパを放浪していたので、英語が通じなくても押しが強く、コミュニケーションができたのである。
ホテルに戻るのと10時くらい。そこから午後2時まで原稿をチェックし、残り120ページ分の原案づくりをした。毎日、鼻血がでた。
2週間が過ぎ、オーランドから戻ったら仕事で使う荷物を選んで積み込み、神保町にある編集プロダクションのビル前に停めた。4日間におよぶカンヅメの暮らしが始まった。
ワープロを編集室にセッティング。出版社の編集者も、知らん顔はせず、毎日付き合ってくれた。原稿をワープロで打つ。5~10ページ分を打ち終えたらフロッピーにDataを落とし、DTP担当に渡す。彼がイラストと組み合わせてデザインしている間、快答ルパンは車に戻り、15分間の仮眠ないし90分間の睡眠をとった。
その楽しいけれど厳しいラリーは、丸4日、続いた。すべてを書き終えたとき、4日間で480分、計8時間の睡眠で乗り切ったことがわかった。
苦労して愚痴(ぐち)もいわずに書いた力作だが、勤め先の社長に話すと
「休日に別の仕事をしていても解雇しないけど、会長を補佐している幹部が本を出したとわかると、休日に会社の仕事をこなす社員もいるから、しめしがつかない」
と釘を刺された。
そこで出版社と相談し、顔見知りの大学教授の名を借りた。思いがけずゴーストライターになってしまった。
しかも著者の大学教授が、
「本が売れるのは私の名前の力。あなたは本業があるから印税は受け取れない」
といい始め、印税のすべてをもっていってしまった。
そのときの経験は、後々の仕事で支えとなった。どんな事態でも道はある。また味方と思った人間も金に目がくらむこともあるから、相手を恨まず、次のことに頭を切り替える。
ちなみに当時の編集者は今も健在で、フリーの編集者として「大人のための寓話50選」(辰巳出版)をプロデュースしてくれた。

快答ルパンは企画プロデューサーとコンセプトデザイナーという二つの顔を持ち、1997年10月を迎えた。
そのころ規制緩和でスカイマーク、北海道国際航空、スカイネットアジア航空、スターフライヤーなど、主に価格優位性をもつLCC系の参入が決まっていた。
実は、この歴史には裏があり、1997年秋には、もう4社ほど新規参入候補が起業し、準備に追われていた。快答ルパンが関わったI社も、その一つ。ただ価格優位性ではなく、社長は新しい航空体験を生みたいと夢を見ていた。
小伝馬町にあるI航空の準備室には、30名ほどの社員が集まっていた。
社長は、いった。
「日米を100回以上往復したが、フライト中が苦痛。ビジネスでは仕方ないが、レジャーで乗る飛行機は楽しくしたい。私の(かん)だけど、この会社は空を飛ぶよ」
集まっていたスタッフで、社長の右腕といわれる総務部長がいた。彼は大手航空会社のA社を退職し、起業に加わった。もとCAの奥さんに「辞める」と告げたら、離婚届けとともに持ち家と5000万円の預金を取られたという。
それでも、彼はI社にかけた。

その航空機は、東京とハワイを往復するチャーター機となる。
成田からホノルルまで8時間のフライトだが、機内に入ったとたんに
「ギャー! 大変だ!」
と叫び声があがり、事件が発生する。機内には女医、探偵、助手、弁護士が乗っていて、犯人捜しがスタートする。
それを演じる芸能プロダクションと提携し、渋いキャラで、力持ちでも知られる俳優が、長い黒髪をロマンスグレーに染め、探偵役を買って出てくれた。
週末の夜には、代々木上原にある芸能プロ社長の自宅で、ホームパーティーが開かれた。
テレビで見たことがある料理研究家のおかげで、ホタルイカの酢味噌和えやマイワシのソテー、プリンスメロンを生ハムで包んだ前菜などが並び、ブレスト・パーティーが始まった。夜も更けて、石臼(いしうす)でひいたそば粉の手打ちそばが出るまで、熱い議論が続けられた。
一連のレクチャーとブレストを受けた快答ルパンは「空翔ぶエンタテイメント」というコンセプトを開発。100ページを超える企画書を作成し、提出したのが12月中旬のこと。
I航空の社長は感動し、快答ルパンに
「来年4月から広報部長として参画してほしい」
と要請する。月給は、前の会社と変わらなかったが、ゼロから航空会社を立ち上げようというドリームがあった。
翌月曜日、広告制作会社で早朝から行われる経営会議に出席した快答ルパンは、社長に退職したい旨を伝えた。
場合によっては新年早々に退社して合流しようとも思っていたが、引継ぎが多く、結局1998年3月の退社と決まったのが年末近く。

年が明け、すぐに引継ぎの仕事を始め、あいさつ回りをしているうちにがちらついた。虫の知らせを感じた快答ルパンは、今まで行ったことのなかった平日に、小伝馬町のI航空準備室に顔を出した。
社長はいなかった。徹夜明けなのかタイツ姿で顔を出した総務部長が、眉間に皺(しわ)を寄せてうなずき、快答ルパンを喫茶店に誘った。
何となく雲行きが怪しいと感じていたが、総務部長はストレートにぶつけてきた。
「昨日、社長が解任されました」
「え? まさか」
「株主から、あの社長じゃ運輸省の認可が下りないと指摘があり、J社から新社長を出してもらうことになりました」
「ちょっと待って。私は、どうなります?」
「あなたの席は……うちには、ありません」
快答ルパンの転職先は、露と消えた。
すでに辞職を申し出て引継ぎを始めていたので前職に戻れるはずもなく、彼は社会にほうりだされた。
このまま「どん底」に突き落とされるのかと緊張したが、独立してみると、退職のうわさをきいたというオーランドでお世話になった人が仕事を発注してくれた。
1998年秋のソウル、1999年秋のトロントと、事業部長が家電メーカーを退職してコンサル会社を作るまでの2回、一(れん)の仕事をすることができた。
快答ルパンの仕事はつながったが、I航空は、とうとう運輸省の許可がおりず、8月に「飛べない」ことが確定した。
快答ルパンは、空飛ぶエンタテイメントの世界を求めて、21世紀になってもチャンスを探し続けた。当 時、謎解きクロス®もパズル小説®も存在しなかったが、いずれ全国で、この手のエンタテイメントをブレイクさせたいという気持ちは、ブレなかった。

■問題です■
・コロナショックが沈静化して東京の街にも笑顔がともり、篁会の理事が集まって椿山荘で美味しい料理とビールで乾杯をするのは『ABCDE』の夜となります。

【ヒント】
□力持ち(縦10) □知らん顔(横24)□ホタルイカ(縦12)
□キャプテン(横7)

2020年4月12日