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謎解きクロスって何?
謎解きクロスは、ミステリーツアーやミステリーウォークなどのイベントに使われる、謎解きのツールの一つです。
謎解きクロスは、クロスワードのような問題のフレームを活用しますが、そのヒントはエッセイだったり、広告だったり、ミステリー小説だったり、あるいは、街の案内だったりするのです。
このブログでは、謎解きクロスと、ミステリーウォークについて、ヒントや、気づき、これからの方向などを、お伝えしていきます。
お楽しみに。
奥の細道が、パズルになった!
一般財団法人ウェルビーイング共創財団で制作してくれたスマホアプリ「謎解きクロス・奥の細道」が、スマホアプリとなって、登場しそうです。
ここでは前文をご紹介したい。
【アプリ】のんびり脳トレ・謎解きサロン 芭蕉・奥の細道への旅路
◆『奥の細道』は、松尾芭蕉が東北と北陸を旅した体験を、文章と俳句でつづった「旅の物語」です。単なる旅行日記ではありません。美しい景色、人との出会い、歴史上の人物への思い、旅の苦労などを、短い俳句と味わい深い文章にまとめた、日本を代表する紀行文学です。
◆芭蕉が旅に出たのは、元禄二年、今から三百年以上前の一六八九年です。芭蕉は四十六歳。弟子の河合曾良とともに江戸の深川を出発し、日光、松島、平泉、山寺、出羽三山、象潟、金沢、敦賀などを巡り、岐阜県の大垣へ到着しました。約五か月、距離にしておよそ二千四百キロという大旅行でした。日によっては三十キロ以上も歩いたといわれます。電車も自動車もない時代ですから、大変な健脚です。
◆当時の旅は、現代の観光旅行とはまったく違います。道は舗装されておらず、雨が降れば泥道になります。山には険しい峠があり、川を舟で渡ることもありました。宿には蚤や虱がいて、枕元で馬が小便をすることさえあります。芭蕉は、そんな苦労まで「蚤虱 馬の尿する 枕もと」と、おもしろい俳句にしてしまいました。
◆では、芭蕉はなぜ、それほど大変な旅に出たのでしょう。目的の一つは、西行や能因など、昔の歌人が訪ねた名所を自分の目で見ることでした。古い和歌に詠まれた土地は「歌枕」と呼ばれます。芭蕉は、昔の人が見た山や川の前に自分も立ち、何百年という時間を越えて、心を通わせようとしたのです。
◆平泉では、源義経たちが滅びた跡に夏草が茂るのを見て、「夏草や 兵どもが 夢の跡」と詠みました。山形の立石寺では、蝉の声を聞きながら、かえって山の静けさを感じ、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠みました。芭蕉は、目の前にあるものだけでなく、その場所に積み重なった歴史や、人々の喜びと悲しみまで見ようとしたのです。
◆ここで一つ、うんちくがあります。『奥の細道』は、旅先で書いた日記をそのまま出版したものではありません。曾良が残した旅日記と比べると、日付や出来事が違うところがあります。芭蕉は旅のあと、何年もかけて文章や俳句を練り直し、一つの文学作品に仕上げました。つまり、『奥の細道』は事実を並べた記録ではなく、芭蕉が構成した「旅のドラマ」なのです。
◆冒頭には、「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」とあります。月日というものは、永遠に旅を続ける旅人であり、過ぎていく年もまた旅人である、という意味です。そして最後には、旅を終えたはずの芭蕉が、再び伊勢へ向かって出発します。
◆『奥の細道』が語っているのは、東北や北陸の名所だけではありません。人生そのものが旅であり、一つの別れは、次の出会いへの出発でもあるということです。五十二句を順番に味わうと、私たちも芭蕉や曾良と一緒に、三百年前の日本を歩いているような気持ちになれるでしょう。

ひそかに、深く、でも大胆に
2026年7月から、実は「収入」がなくなった。まあ、いつかはやってくる老いにあらがうことはできない。老いとは、身体や心だけではなく、社会の目も「老い」をみつけて、離れていく。
そもそも、これまで私を支えてくれていたサポーターのみなさん自身も、だいたい古希前後の世代なので、そろそろ「老い」の陰がちらつく。
もちろん、本当の「老い」が100歳だとしても、7歳にもなれば節々は痛んでくるし、80代、90代も、なんとなく創造がつく。
これが、若い頃は「創造もしない世界」ではあった。数年前、京都に行ったときに、15歳の夏に京都を3週間ほど、一人旅をしたことを想い出した。
これは「祇園」という季刊誌にエッセイとして書いたことがあるのだが、高校1年生の私は、京都にいた高齢者のことを一人も覚えてはいなかった。せいぜい意識していたのは、せいぜい、父母の世代まで。
その意味で、私が初めて意識できた老人は、16歳の誕生日に鎌倉の近代美術館で遭った川端康成ではなかったか。
私は、荻須高徳画伯の凱旋展示会にいて、一枚の絵と対峙していた。そうしたら、いきなりスポットライトを浴びて「もう体感時間を過ぎているのでお帰り下さい」と言われたのだが。
私の支線の向こうには、カメラを抱えた、たくさんの新聞記者たち。その集団のど真ん中には、和装の川端康成と、その奥さんが、大きな花束を抱えて、立っていた。
ギロリとした目が私をにらみつけ、老人は「チッ」と舌打ちした。
それが、中学生のときから愛読していたノーベル賞作家の川端康成だと、すぐにわかった。わかったけれども、どうすることもできなかった。
翌年の春、彼はガスホースを口にくわえて自殺する。私は、改めて川端作品を読み直し、そこにある「世界」に浸り続けた。
とくに短編の「片腕」は、繰り返し読んだ。たぶん、100回くらい読んだ。最初から最後まで、川端康成の世界が波打っていた。
後に、編集者要請コースに通い、川端康成から原稿をもらいにいったことがある文芸評論家から、こんな話を聴いた。
「あるとき川端先生は自分で描いた原稿に~〇〇的~という表現があるのが気に入らず、朝から悩んでいた。真夜中まで悩み続け、結局、その日は表現が見当たらなかった。翌日も、同じところで悩みつづけ、ようやく別の言葉に換えて、原稿がもらえた」
自分の世界を、そこまで追求し続けた結果が、あの世界。
その彼の世界に、荻須高徳の絵も関わってきたのに、邪魔な若者がいた。しかも、300点もある絵から、自分が一番気に入った絵の前で、1時間も観続けている、らしい。
他にも有名な絵がたくさんあるのに、私は、川端が気になる絵を選んだ。だから「チっ」と、されてしまったのかもしれない。
握手して、持っていた川端康成の短編集にサインがもらえたら、私は、若くして文壇に近づけたのかもしれない。
運命の糸は、そこでは交差しなかった。
私が、村上龍に逢って「限りなく透明に近いブルー」にサインをしてもらい、握手をしたのは、川端康成と対峙した経験から、してしまったことだと思う。
龍も、旅立った。
私は、まだ旅立てない。さまざまなエピソードを、心の奥底に鎮めながら、私はデビューの日を待っている。

対応していただきました
ちまたでは、PHPやらPHSやら、気弱性やらAI危機やら、とてもド素人のアナログ大好き人間には理解できない現実が進んでいます。
とても心配だったのですが、ありがたいことに、ICT関係でご指導いただいている福田さんが、私のHPの安全に運営できるように、手立てしてくれました。
何が起きているかは、まったくわからない私ですが、ただただ、感謝なのです。これで、もうしばらく、夢を追い続けることができそうです。
ありがとうございました。で、そこでびっくりしたのは、本サイト以外にも、私のコンセプトデザイン研究所のHPが、残っている、というか、サーバーとHPだけ、たぶん、昔のまま、生き残っているようなのです。
もう、コンサル業は顧客がいなくなったので動いていないのですが、作家一本で生きる覚悟も、まだ収入ゼロ円なので、確率はしていない現状。しばらく、様子見とさせていただきます。
※ここは、ですます調で記しておきました。

のんびり脳トレイン かな?
かつて、鉄道に乗って、推理小説を読むのが大好きだった。
でも、いつしか飲み哲になり、推理小説はめんどくさくなって、もっとライトな読み物か、何もしないでも流れてきてくれるビデオ系に移行していった。
宿に行けば行ったで、せっかくいい雰囲気に包まれているので、わざわざ、都会の日常でも読める推理小説を読むのは「もったいない」気がしていたのだろう。
一方、鉄道の車内を借り切って「ミステリーウォーク」をしたこともあった。車両のどこかにヒントが掲示してあるタイプ。それは楽しいのだけれど、仕掛けが大がかりになり、なかなかゴーサインが降りない。
正解がみつからないまま、何度かのトライアルは、消えていった。その、古くからある課題が、ひょっとしたら解消されるかもしれない。
簡単な「小冊子」でいい。私の謎解きクロスを、もう少し「解答プロセス」ーの見える化をして、ターゲットを拡張する。
年内に、「のんびり脳トレイン 謎解きサロン」のテキストも、完成させたい。すべては、唯一無二のパズル小説普及のために。

結局、人なんです
71年も生きてしまうと、記憶の中はごちゃごちゃで、エビデンスもたくさんある。しかし、なかなか冷静に振り返る機会はない。
それが、病気でも怪我でも「入院」となると、入ってくる情報が極端に少なくなる。その結果、自分の脳にある記憶、心、身体など、アプローチできる部分に、ようやく目が行くようになる。
2023年8月24日から、丸三年が経ち、そろりそろりと新しい環境に染まってきている。しかし、幸いなことに、自分の記憶、心、身体と向き合った経験は、まだ残されている。
先日、仕事でお世話になった方を「偲ぶ会」が開かれた。そこで、つくづく思ったこと。
結局、人生を決めるのは「人」であり、誰と出逢ったかということが、自分の体験として記憶と心と身体に刻まれている。
それ以外に、私の場合は、ほとんどなかった。
誰と出逢い、誰と何をしてきたのか。それが「私」そのものだった。もちろん、どんな場所に行き、何を観たのかという部分も、ICUにで振り返ることはできた。しかし、そこには必ず、人がからんでいた。
自分もまた「人」なのだということを、強く意識していた。そして、人は「死んでしまう」存在であることも。
この話は、ビジネスでも、いえるだろう。
結局、何を思いついてどんな環境にいてどんな仕事をしたのかと振り返るときも、そこで重要なことは「誰と、それを進めたか」ということ。
すべて、人であるなら、これからも、出逢いを体制にして生きていきたい。まだ、命のあるうちに、人に逢い、人と出逢う場にいこう。
