(財)日本科学技術連盟は、日本の製造業のクオリティを支えてきた団体。そこで発刊しているクオリティ・マネジメント誌の取材・執筆には、かれこれ15年ほど関わり、ここ10年ほどは編集アドバイザーを仰せつかっています。
そのクオリティ・マネジメント誌は、今は「ウェブマガジン」となっていて、一般のみなさんは、途中までしか読むことができません。
私は、編集アドバイザーとしてアカウントをいただいてますから、会員ではない読者が、どこまで見られるのか、よくわからないのです。(調べれば、すぐわかるのでしょうが、めんどくさいので、そんなことはしていません)
さて、今、つらつらと記事を読んでいたら、コラムで共感するものがありました。みんな、面白いのですが、そのなかでも、こんなものもみつけました。
「安全・安心」という言葉は、最近よく見かけたり聞いたりするフレーズです。私たちのまわりにはさまざまなリスクが広がっており、たとえ安全だからといって安心できるとはかぎらず、安心しているからといって安全につながるとはかぎりません。今回は、この「安全・安心」というフレーズについて、少し考えてみましょう。
1つめは「安全」についてです。広辞苑で「安全」をひくと、“①安らかで危険のないこと”とあり、「安らか」は“安心できるさま”とあります。また、“②物事が損傷したり、危害を受けたりするおそれのないこと”とも書かれてあります。
しかし、よくよく考えてみると“これは安全です”といっても“100パーセントの安全”ということはありえません。何よりも、それらが②のように物理的なものであるかぎり、そこには「時間」が関わってきます。ものによっては、2016年2月には安全でも、その5年後の2020年2月には安全ではないということもあるでしょう。たとえば、食品の場合は賞味期限があり、それを過ぎても食べられなくなるとはかぎりませんが、あまりに過ぎてしまうと口に入れられる食品ではなくなるかもしれません。
また、安全と判断する時は、「誰にとって安全か」という視点も必要になります。すべての人にとって安全なものなど、世の中には存在しないからです。
たとえば、建築や作業などで使うハンマーがありますが、決められた使い方をしていれば安全です。しかし、慣れない人が使えば自分の指を叩いてしまうかもしれませんし、誰かの身体を叩いたら安全どころか凶器になってしまいます。かといって、釘を打てないハンマーでは存在意義がありません。
このように定義そのものにも、それぞれの判断にはすべて前提があり、どこかで「ここまで」という落とし所を想定して、その範囲内で安全を語っていくしかありません。また、使う人の使い方や意識によっても影響を受けてしまうものなのです。
2つめは「安心」についてです。私たちは「安全です」といわれれば、少しは安心することができます。しかし、前述のとおり安全には前提があり、100パーセントの安全ということはないわけですから、1つひとつの現象に直面するたびに、安全かどうかを自分で考え、安心できるか、状態を判断することになります。
たとえば、私たちは安心できなければ眠ることができません。しかし、体力の限界がきてしまえば、安心できる環境にいなくても自然と眠ってしまいます。東日本大震災で、自衛隊を中心とする救助隊のみなさんが、災害発生からの3日間を不眠不休で活動したのは、人間が眠らないで体温を維持して耐えられるのが72時間とみられているからです。体温が下がるということは、生体機能を維持できなくなるということ。そのため、一分一秒も惜しんで救出活動をつづけてくれたのです。
もちろん、私たちだけでなくおそらく野生動物にとっても、安心できる場所がなければ眠ることはできないでしょう。眠った瞬間に襲われて、命を落とすことになるからです。このように考えると安全は安心の1つの大きな要因となっているといえます。
しかし、安全だからといって絶対に安心できるかというと、そうでもありません。私たち人間には、イマジネーション(想像力)があります。脳を納得させるだけの「情報」がなければ、私たちはさまざまなイマジネーションをふくらませることでしょう。
たとえば、私は高所恐怖症のため高飛び込みはできません。渓谷の橋からのバンジージャンプなどは、もってのほかです。あのヒモが切れるのではないか、あるいはゴムの部分が伸びすぎて激流に衝突するのではないかと考えてしまいます。そんな私ですが、カナダのトロントにある展望台に、床面の一角が5メートル四方ほどの透明ガラスがはめ込んである場所があり、『この上を歩いて空中散歩を体験したい』と一度チャレンジしようとしたことがあります。しかし、どうしても最初の一歩を踏み出すことができませんでした。だって、ガラスが割れることを想像してしまうから・・・。安全であることはわかってはいても、ままならないこともあるんです。
同じように、私は大地震の中でも地下鉄が安全であることを、いろいろなメディアをとおして知っています。それでも自分が乗っていた電車が緊急停止して、車内に警報(本当に嫌な音で身構えてしまうような音です)が鳴り響いた時には不安になりました。
「ただいま、関東地方で震度5強の地震が発生したとの連絡が入りました。しばらく停止し、安全が確認できましたら発車いたします」と車内アナウンス。
ところがその後、1分たっても2分たってもアナウンスが流れない。それどころか、非常電源に切り替えたのでしょうか、さきほどの半分くらいの照度で蛍光灯が点きました。ひょっとしたら地上は大変なことになっているのではないか。駅は大丈夫か。安全は確認できるか。そもそも何でアナウンスがないのだろうか・・・と、私のネガティブなイマジネーションが広がっていきます。
この時の私のように、いくら事前に地下鉄が安全だとわかっていても有事の際に「情報」が伝わってこなければ、決して安心することはできません。私たちは、いきなりパニックに陥るわけではありません。最初は何が起こったのだろうとポカンとして、そのうち状況を確認する余裕ができ、イマジネーションが働き、その結果としてパニックに陥るのです。安心は実は情報が支えているのかもしれません。したがって、たとえ状況に進展がなくても、乗客に情報を流しつづけるということが、1つの安心につながるのではないでしょうか。
このように、安全には「時間」と「誰にとってのものか」、そして安心には、「安全の確認」と「イマジネーション」が関わってきます。常にそれらを配慮し、安全な状況を維持しなければなりません。そして、安心するためには安全に関するそれらの適切な情報提供がなされることが大切だと思います。実は、切っても切れないようなバランスで「安全」と「安心」は関係しているのかもしれませんね。
以上、クオリティ・マネジメント誌からの引用です。
で、話の続き。
私は、途中で、ようやく気づきました。あ、これは半年前に、私が書いて編集部に送った原稿だったと。
たまに、あるのです。
私は、同じ本を二度買って、読んで感動してしまったり。そのとき、デジャブかと思っていたら、何のことはない、昔、読んでいたりします。自分の本でも、5年以上経つと、内容の詳細は忘れているので、自分で読んで「勉強になるなぁ」と思ったり。困ったものです。
ただ、一つ、いいことがあります。
推理小説の真犯人を、忘れているのです。なので、ミステリー小説を二度目に読んでも、けっこうわくわくして、本当に真犯人が誰か、悩んでしまったりします。その結果、全壊も間違えたのに、今回も間違えた、なんてこともよくある話。
でも、本人が楽しいのですから、ま、いいか。