日本初のパズル小説®作家の廣川州伸です。今回は、人生について、ちょっと書きます。
50年前、みなさんと同じように、私も「天才」であり、かけがえのない人生が、向こうにあると信じていました。
その当時、何をしても「パっ」とうかんできました。これは、この年代の特徴で、いわゆる「はやみえ」するのです。何をするべきかということも、たぶん、数秒で決まっていたと思います。
今思えば、ただ考えていなかっただけなのですが、それで人生を乗り切れると信じていました。だいたい、やることは成功しました。
ところが、高校に入るときに、最初の「違和感」に襲われました。というのも、私は小石川高校に入って京都大学に進むつもりでした。
中学三年生のときに、いくつかの「ひらめき」をみせました。二十歳すぎてら、ただの人になり、その後は、ただのおっさん道を歩いた私ですが、15歳のころは、自分でもびっくりするくらい頭がクリアになっていました。
それで、いくつかの出来事を経験しました。
一つは、大学生が使うユークリッド幾何学の教科書に、証明の誤りを発見し、正しい証明を、ペーパーでいうと3枚ほど書きあげ、数学教授に封書で送ると、ていねいな返信がきました。
一つは、代々木ゼミナールの日曜ゼミに通っていたときのこと。数学の先生が、大学数学科の先生で、受験の技術だけでなく、たまに基礎数学理論の話をしてくれました。
そんな関係で、授業中、「三角形の内角の和が180度である」という定義だけを使って、接弦定理を証明しました。とともに、「円」の性質と「三角形の内角の和が180度」ということは、ともに「定理よりも強い呪縛がある公理に関わっている」ことを証明しようとしました。
授業後、そのペーパーをもっていくと、「君は、京都大学にいくといい」といわれ、その気になりました。結果だけいえば、18歳になった私は、自分が兄弟どころか、信州大学にも入れない学力だったことをつきつけられます。
高校の3年間、受験勉強をまつたくしなかったのですから、それもまた、今思えば当然のこと。でも、当時は、驚きました。京都大学の数学の試験問題を解くのに、2時間どころか10日間くらいかかったのですから。
同じく15歳のとき、練馬工業高校に行って工学系の先生を呼び出し、「アルミ」についてのヒアリング。それベースに実用新案の申請を考えていましたが、特許庁で調べてもらうと「やなぎやきんごろう」さんが、すでに取得していました。
奮起した私は、新しいゲームを考案し、実用新案を申請。それが通ったので、発明協会に持ち込んで、玩具メーカーを紹介してもらいました。たぶん、バンダイだったと思いますが、手紙を書いたら、ていねいな返事がきました。
「当社では商品化できない」といい、別の玩具メーカーを紹介してくれたのです。それで「見本」を制作し、メーカーに持ち込みました。残念ながら「市場に出してもヒットさせる自信がない」と、そこで止まってしまいました。
15歳の夏、中学3年生の夏休み、宿題を3日くらいで終わらせた私は、30日以上、朝から晩まで一人で絵を描いて過ごしました。そのとき生まれた絵は2枚。うち、自画像と名付けた一枚を観た美術の先生は、ショックを受けました。
どんなショックかというと、その年で、中学教諭を辞め、もう一度、画家になる道を進むことにしたということです。一枚の絵に、人を動かす力があるということを知りましたが、16歳のとき、その絵は焼いてしまいました。
あれから、50年。いつも、懸命に生きてきました。まぁ、悔いはないのですが、私の人生は、これからなんです。
ようやく、謎解きクロス®と、それを使ったパズル小説®という、これまで誰も踏み込んでいかなかった世界をつくることができました。
だから、これからなんです。そして、「0から1」を生み出したので、これからは「1から100」にしてくれるパートナーとともに歩く必要があります。
私は今、思考時間というコンセプトにとらわれています。人生は、何をしたのかという実体験とともに、何を考えたかという実体験も、重要な要素。そのとき、思考時間をしっかりとかけるということが、新たな発想を生む原点となります。
改めて、65年も生きてしまった自分をふりかえりつつ、あと、何年くらい思考時間がとれるのか、つらつらと考えている私です。
こんなことを考えて、書いているうちに、きっと新型コロナ禍を乗り越えるプロセスが、熟成し、浮かんでくるのだと思います。