竹早高校3年生の秋、科学者になる夢が破れて、青春のどん底、暗い穴の底でもがいていた私は、ドストエフスキーの小説に救われ、「そうだ、まだ作家への道が残されている」と気付きます。
それから10年間、絵と小説の道を究めようと暴走したのですが、ようやく「社会の構造」に気が付き、ビジネス理論を究めたいと思うようになります。作家への道をあきらめきれないまま、ビジネスを究めてみようと誓ったのです。
ビジネス書を読み、マーケティングを学び、仕事も情熱をもって取り組みました。勤め人だったのは15年間しかないのですが、1度も遅刻したことはありません。そして週末には、小説を読みました。
ただ、小説の対象は純文学からエンタテイメント、とりわけミステリーにシフトしていきました。私は、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟も、推理小説なのではないかと疑っているくらい、謎解きにもハマリました。
今、パズル小説®の創始者となり、宗家として普及していくことを目指しているのですが、やっぱり原点を問うと、あの18歳のときに挫折して、もう科学者にはなれないと知ったときの驚きと、元気をくれた小説への敬服に思い当たります。
18歳のときに、真剣に考えていた夢が瓦解したとき、私は、死んでいたかもしれません。科学者になれない人生なんて、何の意味があるのか。アインシュタインの一般相対性理論の偏微分方程式が解けなかった青年は、そう思ったのです。
パズル小説とは関係がありませんが、父に言われた言葉を思い出しました。「お前は、十で神童十五で才子、二十歳すぎればただの人」という言葉を噛みしめて努力しなければいけない、というのです。
九歳のときに書いた詩が毎日新聞「小さな目」に掲載され、絵と作曲で東京都レベルですが大きな賞をとり、十三歳で小さな親切運動の標語に学生ながら入選し、渋沢栄一翁の息子さんの秀雄さんから、直々に手紙をいただきました。
なぜか頭が冴え、エバリスト・ガロアやアインシュタインが15歳までにユークリッド幾何学を究めたことを知り、図書館で大学生が使うユークリッド幾何学の本を借りて、一年ほどかかりましたが、読破することができました。
しかも、本の中で難しい定理の証明に致命的なミスを発見し、生意気にも正しい証明を書いて出版社御中で著者の大学教授あてに送ると「貴兄のいう通り。再版のときに、貴兄の証明に直します。感謝」という手紙をもらいました。
そういえば、16歳か17歳のときに実用新案を申請して通りました。ゲームだったのでバンダイに持ち込んだのですが、商品化は難しいといわれて、大金持ちになるのは「円がなかった」と知りました。
18歳のころ、突然、神通力がなくなります。気が付いたら数学の問題が、まったく解けなくなっていたのです。単なるバカでした。それまで、問題を観たとたんに解答が浮かび、それに向かって進めばよかったのに。
パッとみても、何もうかんでこない。それがわかったとき、父の言葉を思い出しました。十で神童十五で才子、二十歳すぎればただの人。私の場合は、18歳で、ふつうに青年になっていたのです。
ですから、酒も飲むしタバコも喫う。つるんでいなかったので犯罪に手を染めることはありませんでしたが、一匹オオカミとして、身体によくないことは何でもしました。
世の中が、どうなっているのか。ふつうの青年でも、自分の居場所が、どこかにあるのか。それが知りたかったのです。頭は五厘刈で、雪駄をはき、歌舞伎町界隈をふらふらしました。
その間、やはり父から譲り受けた新日本文学全集を読み漁り、川端康成や北条民雄、田中光秀などに惹かれるなか、竹早高校の佐藤先生に呼ばれたのです。「あなたの文章は、凄い。みたことない。作家のなかでも十年に一度の逸材ね」
そしてドストエフスキーを勧められ、読み漁りました。あのころ、受験勉強を捨ててしまえば、毎日、時間がたっぷりあった。その後も、とうとう受験勉強をしないで二十歳になってしまった私は、時間がたくさんありました。
先輩に恋をし、池袋のバーに勤めていた敬子さんと出逢い、市井の人々の人生を知ります。ただの人でも、捨てたものではなかった。私も、頭は悪くなってしまったけれど、それでも何かできるのではないかと希望も持ちました。
そして私が誓ったのが、たった一つでいいから、世の中の誰も生み出していなかった作品を生み出すことです。
なんだか、やばいですね。昔のことが、どんどん浮かんできます。細かいところまで、詳細におぼえています。過去にはこだわらないポリシーなのですが。
ただ、あのころがパズル小説®の原点があることは間違いなさそうです。