還暦まで生きてしまうと、人生において、だいたい「これから、どんな展開になるか」という見通しが立つようになります。いいことも、悪いことも、突然やつてくるのではなく、「あの点」と「この点」が、いずれ結びつくと感じたり、実際、結びついてきたりと、そんなことが増えてきます。
でも、大きな視野に立ってみると、「あ、実は、関係していたのか」と、不思議に感じることもあります。別に意図して進めたわけでもないのに、調べてみたら、符合していたというケースです。
まず、「深谷」「渋沢栄一」「渋沢秀雄」のラインがあります。
次に「渋谷・西小山」「五島慶太」「渋沢栄一」「渋沢秀雄」というラインもあります。
ここで、「渋沢栄一」「伊豆下田」は「伊豆急行」「五島慶太」というラインになり、実は「五島慶太」は「信州上田の青木村」の出自。
さきほどの「渋沢栄一」のふるさと「深谷」と「信州上田」がつながります。
てころで「謎解きクロス」の関係でいえば、2008年に東急電鉄さんの紹介で「伊豆下田」でミステリーツアーができ、2009年に「渋沢栄一」が開発した産業地、遊郭のある「西小山ミステリーツアー」が始まりました。
その西小山ミステリーツアーは、私の友人のミステリー作家・故伊井圭氏が2003年に始めた「深谷宿ミステリーツアー」を源泉としています。伊井圭さんが亡くなられた後、深谷で謎解きクロスによるミステリーツアーを、私が進めているのですが、ここで、複雑な点が線で結ばれていることがみえてきました。
登場人物の一人「五島慶太」さんは、東急電鉄の創業者であることはいうまでもありませんが、昭和34年8月14日、伊豆急行の開通を目にする前になくなられたのですが、日本経済新聞社の「私の履歴書」のプロフィールで、こう書かれています。
『昭和初期の財界不況に遭遇、「しばしば自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験した。時には社員の給与にも困難し、十万円の借金をするのに保険会社に軒並み頭を下げて回り、みな断られて小雨の降る日比谷公園を渋沢秀雄君とションボリ歩いたこともあった』
ここで「謎解きクロス」と「渋沢秀雄」がつながってくるから、人生は不思議です。もちろん「廣川州伸」というちっぽけな点も、でてきます。
1968年の春。中学1年だった「廣川州伸」は、「渋沢秀雄」という人物から書留をもらいました。なかには、達筆な筆(万年筆)の挨拶状とともに、1万円が入っていました。「渋沢秀雄」は、「渋沢栄一」の四男です。何で、彼が私に1万円を送ったのか。それは、「廣川州伸」が、小さな親切運動の標語に応募し
君の手は ゴミを拾う手 捨てない手
で、中学生ながら、優秀賞をとったからでした。そのときの渋沢秀雄の手紙は、私には価値がなく、大正八年生れの父が「この人は凄い人だよ。よく、こんな偉い人から手紙をもらえたな」と感激して、涙している姿を見て、1万円だけ受け取って、手紙は父に預けました。父は、礼状を書いたはずです。
一万円は、当時、ニニ・ロッソが大好きだったので、トランペットを買いました。余談ばかりですみません。
「渋沢秀雄」は、「五島慶太」と、昭和初期の不況のときに、日比谷公園を歩いていたのです。
私は、必ず謎解きクロスによるミステリーウォークを「日比谷公園」ですることになるのですが、そこは10代のころから、何度も何度も歩いてきた場所の1つ。
「廣川州伸」は「五島慶太」とも、「渋沢栄一」を通して、つながっていたのです。なんだか、凄いことになりました。
これから、私は「渋谷」とも、深く関わっていくことになるはず。そのとき、「五島慶太」「渋沢栄一」「渋沢秀雄」「深谷宿」「信州上田」「伊豆下田」「西小山」など、点と線で結ばれた歴史のなかで、一体、どのような図形が描けるのでしょうか。
実は「廣川州伸」「謎解きクロス」を加えることで、これから全国に知られる、大きなムーブメントが始まることになります。