みなさん、お元気ですか?
私が、30年以上、なぜ「競争から共創へ」というコンセプトで仕事も人生も進めてきたのか、あまり語ってきませんでした。というのも、30代までは競争という価値観から抜けていなかったからです。心のどこかで、「でも勝ちたい。本当は、勝ち組に入りたい」と感じていたからです。
今日、大吉くじが「流行する」としたら、それは「大多数が勝ち組になれずに、落ちてしまう社会」になっていることと、無関係ではありません。昭和の時代は、みんながそこそこ貧しかったので「8割が駐留意識がある」などといって、みんな「横並び」をよしとしていました。まさか、自分が「負け組」に入るとは、多くの人が思ってはいなかったのです。
ところが、平成の時代に、負け組にスライドしていく人が増えていきました。しかも、負け組の過程に生まれてしまえば、そのまま、いつまでも負け組としての人生が続きます。「縁の下の力持ち」「一隅を照らそう」「社会貢献しよう」などと持ち上げられながら、実際は、どんどん生活が苦しくなっていきました。
一般論なんですが。
社会構造が「ゼロサムゲーム」では、ほんの一握りの「勝者」と、大多数の「敗者」が生まれます。米国がそうですし、ロシアも中国も、同じ構造です。それで、激しい競争が生まれることになり、多くの人が、最初から「敗者」の烙印をおされています。社会には序列があり、順番を他者にゆずる美徳を信じると、バカを見ることになります。
それが、私たちの生きている現実です。
だから、勝つために競争し、自分を高めるのではなく、周りを蹴落とす戦略をとり続け、墓穴を掘ることになります。そして、構造的に「集金システム」ののっている、ごく一部の人々が、庶民には美徳を勧め、消費税納入と新ボイス導入を勧め、自らはお金のもつ力を堅持することになります。
ところが、そうやって貧困が忍び寄ってきても、日本人には「清貧は美徳」という価値観というか、教えがあり、「いいじゃないの、貧しくとも」「いいじゃないの、幸せならば」という世界で、我慢してきたのです。
これら、すべて一般論ですが。
でも、今、ゲームチェンジの時代がきています。イノベーションのジレンマでは、市場が変わるときには、品質においては疑問があるけれども、革新的な発想と思考で、情熱を持って新市場開拓に夢をかける人々が現れて「競争」し、ごく一部が生き残り、次の時代の覇者となります。
それはそれで、納得できるところもありますが、西洋的な価値観なんですね。やっぱり、競争して生き残るのが、遺伝子に刻まれているということになります。
本当ですか?
遺伝子に刻まれているのは「競争」ではなく「共創」なのではないでしょうか。相手を殺戮しようとする究極の競争は、結局、自分を殺すことになります。これは核戦争を考えるまでもありません。いつも、戦争は、自分第一主義のようにみえて、最後は自滅に向かうのです。
だから、大吉くじなんですね。
そうです。序列のある、棄損の常識的な「おみくじ」は、競争の神様は喜びますが、これからの人間社会には、向きません。共創の神様は、殺し合いを求めていません。個性を重視し、自由を愛するということは、必然的に、相手の個性も、自由も認めて、尊重することになるのです。
これは、競争の中での「平等思想」とは異なります。
ロシアでも中国でも北朝鮮でも、たぶん「平等」は進んでいます。進んでいるけれど、自由はありません。人間は、恐怖で押さえつけなければ、競争原理が働いて、敵対する人間を殺戮することになるのです。
自分たちの集団の中で平等であれば、社会はうまく回ります。ただ、その狭い社会がうまく回っても、ゼロサムゲームがチェンジされなければ他者とは必ず利害が衝突しますから、争奪戦になるでしょう。いきつくところは、戦争です。
大吉くじの背景で、そんなことを考えています。
みんな、ちょっとだけでいいから、幸福になってね。