最近、大人の発達障害についての本が増えていて、よく売れています。私も、10冊くらい、読みました。なぜ? だって、どうみても、私の子ども時代と、そっくりだったからです。
まず、4歳で入った保育園を3日で中退。集団行動ができなかったので、毎朝、近所にある立教大学のグランドに行き、一人で過ごしていました。
だから、小学校に入学したときには、自分の名前を「ひらがな」で書くことができませんでした。おまけに、ひどい「ドモリ」なので、友達はひとりもいませんでした。
おまけに、人よりも「頭ひとつ身長が高い」ために、二つ上の子どもとしか親交がなかった。小学校に入学し、教室に行っても、自分の机がわからない。字が読めない、書けない。知り合いがいない。
そんな私が、小学校三年生の一学期に学級委員に選ばれるのですが、それは、小学一年生の終わりに毎日新聞朝刊に、「ラッパ」という詩が紹介されたからです。
小学校二年生で描いた消防自動車の絵は板橋区で最優秀賞、東京都の展示会でも金賞をもらって雑誌にも紹介されました。
小学四年生になると、作曲コンクールで当時の小学生としては珍しく「佳作」をとり、中学一年生で応募した標語は唯一の中学生で入選し、渋沢栄一の息子である秀雄さんから直筆の手紙と賞金1万円をゲットしました。
ところが、そんな私は教室から突然いなくなる名人であり(当時は、あまり、そういうことをする人がいなかった)何をしているかというと、散歩をしていた次第。理由は、たんほぽが咲いた、桜が散りそう、とか。
もともと、廣川家は「数か月に一度、二泊三日の旅をする」家系(?)で、週末ではなく、平日に「風邪で休みを取る」習慣があったのです。
11歳のときには二次元方程式を研究していましたし、15歳のときにはユークリッド幾何学の本を読破し、証明の不具合を発見するだけでなく、正しい証明方法を提案して長い手紙を出版社に送った。
しばらくして、著者の大学教授から「あなたのご指摘の通りです。証明については、再販のときに、あなたの証明に差し替えます。感謝」という手紙をもらっている。
ところが、都立竹早高校に入学したころから、暗い穴に落ちてしまった。世界の悪い部分がみえてきて、酒・タバコを覚え、アルバイトをしては一人旅に出ることを始めた。
そう、発達障害のグレーゾーンにいた人間、そのものの人生だったことになる。当時は、そんなことは思ってもいなかったが、なくした傘は1000本。財布は30回、大事なカバンを10回以上置き忘れているし、クレジットカードの再申請は常連となっている。
運よく、サラリーマン生活を13年したものの、独立。本を50冊も描けたのは、優秀な編集者と出逢えたおかげ。彼らがいなかったら、私がビジネス作家になることは、なかった。
みんな、大人の発達障害の一面を示している。
うーん、よく社会生活をしてこられたものだ。九死に一生を得て、いきなり、絵が描きたくなったのも、やはり発達障碍者独特の「感性」を活かしたいと思ったからだろう。
なんとか、生きているので、まだまだ、これから本領を発揮したいと思います。八対象外でも、ちゃんと社会人になれるということを、みんなにも伝えたいなぁ。