■1■鉄のワナ
麻布の、とあるやしき町に、百メートル四方もあるような大邸宅があります。
四メートルぐらいもありそうな、高いコンクリート塀が、ズーッと、目もはるかに続いています。いかめしい鉄の扉の門を入ると、大きなソテツがドッカリと植わっていて、その繁った葉の向こうに、立派な玄関が見えています。
いく間ともしれぬ、広い日本建てと、黄色い化粧れんがをはりつめた、二階建ての大きな洋館とが、かぎの手にならんでいて、その裏には、公園のように、広くて美しいお庭があるのです。
これは、実業界の大立者、羽柴壮太郎氏の邸宅です。羽柴家には、今、非常な喜びと、非常な恐怖とが、織り混ざるようにして、襲いかかっていました。
喜びというのは、今から十年以前に家出をした、長男の壮一君が、南洋ボルネオ島から、お父さまにお詫びをするために、日本へ帰ってくることでした。
壮一君は生来(せいらい)の冒険児で、中学校を卒業すると、学友とふたりで、南洋の新天地に渡航し、何か壮快な事業を興したいと願ったのですが、父の壮太郎氏は、頑としてそれを許さなかったので、とうとう、無断で家を飛び出し、小さな帆船(はんせん)に便乗して、南洋に渡ったのでした。
それから十年間、壮一君からはまったくなんの便りもなく、行方さえわからなかったのですが、つい三ヵ月ほどまえ、突然、ボルネオ島のサンダカンから手紙を寄越して、やっと一人前の男になったから、お父さまにお詫びに帰りたい、といってきたのです。
壮一君は現在では、サンダカン付近に大きなゴム植林を営んでいて、手紙には、そのゴム林の写真と、壮一君の最近の写真とが、同封してありました。もう三十歳です。鼻下(びか)に気取ったヒゲをはやして、立派な大人になっていました。
お父さまも、お母さまも、妹の早苗さんも、まだ小学生の弟の壮二君も、大喜びでした。下関で船を下りて、飛行機で帰ってくるというので、その日が待ちどおしくて仕方がありません。
さて一方、羽柴家を襲った、非常な恐怖といいますのは、他ならぬ「二十面相」の恐ろしい予告状です。予告状の文面は、
「余がいかなる人物であるかは、貴下も新聞紙上にてご承知であろう。
貴下は、かつてロマノフ王家の宝冠を飾りし大ダイヤモンド六個を、貴家の家宝として、珍蔵(ちんぞう)せられると確聞(かくぶん)する。
余はこのたび、右六個のダイヤモンドを、貴下より無償にて譲り受ける決心をした。近日中にちょうだいに参上するつもりである。
正確な日時はおってご通知する。ずいぶんご用心なさるがよかろう」
というので、終わりに「二十面相」と署名してありました。
そのダイヤモンドというのは、ロシアの帝政没落ののち、ある白系ロシア人が、旧ロマノフ家の宝冠を手に入れて、飾りの宝石だけを取り外し、それを、中国商人に売り渡したのが、まわりまわって、日本の羽柴氏に買い取られたものであり、価(あたい)にして二百万円という、貴重な宝物でした。
その六個の宝石は、現に、壮太郎氏の書斎の金庫の中に収まっているのですが、怪盗はその在り処まで、ちゃんと知りぬいているような文面です。
その予告状を受け取ると、主人の壮太郎氏は、さすがに顔色も変えませんでしたが、夫人を始め、お嬢さんも、召使いなどまでが震えあがってしまいました。
ことに羽柴家の支配人の近藤老人は、主家の一大事とばかりに、騒ぎ立てて、警察へ出頭して、保護を願うやら、新しく、猛犬を買い入れるやら、あらゆる手段をめぐらして、賊の襲来に備えました。
羽柴家の近所は、お巡りさんの一家が住んでおりましたが、近藤支配人は、そのお巡りさんに頼んで、非番の友だちを交代に呼んでもらい、いつも邸内には、二―三人のお巡りさんが、頑張っていてくれるように計らいました。
そのうえ壮太郎氏の秘書が三人おります。お巡りさんと、秘書と、猛犬と、この厳重な防備の中へ、いくら「二十面相」の怪賊にもせよ、忍び込むなんて、思いもよらぬことでしょう。
それにしても、待たれるのは、長男壮一君の帰宅でした。徒手空拳(としゅくうけん)、南洋の島へ押し渡って、今日の成功を納めたほどの快男児ですから、この人さえ帰ってくれたら、家内のものは、どんなに心丈夫だかしれません。
さて、その壮一君が、羽田空港へつくという日の早朝のことです。
あかあかと秋の朝日がさしている、羽柴家の土蔵の中から、ひとりの少年が、姿を現しました。小学生の壮二君です。
まだ朝食の用意もできない早朝ですから、邸内はひっそりと静まりかえっていました。早起きのスズメだけが、威勢よく、柿の枝や、土蔵の屋根でさえずっています。
その早朝、壮二君が白のタオルの寝間着姿で、しかも両手には、何か恐ろし気な、鉄製の器械のようなものを抱いて、土蔵の石段を庭へ降りてきたのです。いったい、どうしたというのでしょう。驚いたのはスズメばかりではありません。
壮二君は夕べ、恐ろしい夢をみました。「二十面相」の賊が、どこからか洋館の二階の書斎へ忍び入り、名画や宝石を奪い去った夢です。
賊は、お父さまの居間に掛けてあるお能の面のように、不気味に青ざめた、なんの意識も感じられない、無表情な顔をしていました。そいつが、宝物を盗むと、いきなり二階の窓を開いて、真っ暗な庭へ飛び降りたのです。
「ワッ」といって目がさめると、それは幸いにも夢でした。しかし、なんだか夢と同じことが起こりそうな気がして仕方がありません。
「二十面相のやつは、きっと、あの窓から、飛び降りるに違いない。そして、庭を横切って逃げるにちがいない」
壮二君は、そんなふうに信じ込んでしまいました。
「あの窓の下には花壇がある。花壇が踏み荒らされるだろうなあ」
そこまで空想したとき、壮二君の頭に、ヒョイと奇妙な考えが浮かびました。
「ウン、そうだ。こいつはいい。あの花壇の中へワナをしかけておいてやろう。もし、ぼくの思っている通りのことが起こるとしたら、賊は、あの花壇をよこぎるにちがいない。そこに、ワナをしかけておけば、賊のやつ、うまく掛かるかもしれないぞ」
壮二君が思い付いたワナというのは、去年でしたか、お父さまのお友だちで、山林を経営している人が、鉄のワナを作らせたいといって、アメリカ製の見本を持ってきたことがあって、それがそのまま土蔵にしまってあるのを、よく覚えていたからです。それを、うまく利用できないか。
壮二君は、その思い付きに夢中になってしまいました。広い庭の中に、一つぐらいワナを仕掛けておいたところで、はたして賊がそれに掛かるかどうか、疑わしい話ですが、そんなことを考える余裕はありません。なにかのノイズのように、一度、気になりだしたら鳴りおわるまでとまりません。
ただもう、無性にワナを仕掛けてみたくなったのです。そこで、いつにない早起きをして、ソッと土蔵に忍び込んで、大きな鉄の道具を、エッチラオッチラ持ちだしたというわけなのです。
壮二君は、いつか一度経験した、ネズミとりを掛けたときの、なんだかワクワクするような、愉快な気持を思い出しました。しかし、今度は、相手がネズミではなくて人間なのです。しかも「二十面相」という希代の盗賊です。ワクワクする気持は、ネズミを始末した場合の、十倍も二十倍も大きいものでした。
鉄ワナを花壇の真ん中まで運ぶと、大きなノコギリメのついた二つの枠を、力いっぱいグッと開いて、一度テストをしてズレをただし、うまく据え付けたうえ、ワナと見えないように、そのへんの枯れ草を集めて、覆い隠しました。
もし賊がこの中へ足を踏み入れたら、ネズミとりと同じ具合に、たちまちパチンと両方のノコギリメが合わさって、まるでまっ黒な、でっかい猛獣の歯のように、敵の足くびに、食い入ってしまうのです。家の人がワナにかかっては大変ですが、花壇の真ん中ですから、賊でもなければ、滅多にそんなところへ踏み込む者はありません。
「これでよし。でも、うまくいくかしら。万一、賊がこいつに足くびを挟まれて動けなくなったら、さぞ愉快だろうな。どうかうまくいってくれますように」
壮二君は、神さまにお祈りするような恰好をして、それから、ニヤニヤ笑いながらツメを噛み、家の中へ入っていきました。実に子どもらしい思いつきでした。しかし少年の直感というものは、けっしてばかにできません。壮二君のしかけたワナが、後にいたって、どんな重大な役目を果たすことになるか、読者諸君は、このワナのことを、よく記憶しておいていただきたいのです。