パズル小説®作家の廣川州伸です。今回は、脱コロナ時代の「編み物」「読書」「パズル」の本質について、ちょっと考えてみます。
コロナショックをめぐって、マスコミやネットで大騒ぎをしているみなさんの「真意」がどこにあるのか考えてみる必要があります。そもそも、真意なんて、誰がわかるのか、という疑問は飲み込んで、ちょっと考えてみましょう。
編み物も、読書も、実は「これが正解だ」というものは、本質的に、ありません。編み物で、完成モデルは用意しているかもしれませんが、出来上がった作品に「正解」はありません。だから、楽しいのです。
読書にしても「こう読まなければだめ」というものは、基本的にはない。あるように強制すると、読書がつまらないものとなります。カフカの異邦人も、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟も、私は「ミステリー小説」として読み、謎解きを優先しました。読書は、そういうものなのです。
どちらかというと、映像作品には、正解が色濃くでていて、本を読んでいるときのような「曖昧性」はありません。本では物語の主人公の姿を自分の思い描く人物に投影できますが、映像では、そうはいきません。なので読書のほうが、映画などよりも正解のなささかげんが、強いのです。
さて、パズル小説®は、どうでしょう。「パズル」そのものには、だいたい正解があります。そのように作るからです。ミステリー小説で暗号がでてきたら、そこに「正解」はあるのです。だいたい。
でも、パズル小説®は、ちょっと違います。それは、ミステリー小説に正解がある、という言い方と似ています。犯人がわかったことを正解とするなら、正解はあるかもしれません。でも、その他に、本なのですから、いろいろな読み方ができます。そこで得られる「体験」については、どれが正解という世界ではありません。こう読まなければルール違反、というわけではないのです。
パズル小説®は、正解がきっちり決まっている読み物ではありません。もっと滋養に、もっと楽しく、場合によっては「別のアプローチ」で、凄い答えがでてくるように、新しい創作を発見できるかもしれません。
アガサ・クリスティが、ミステリー小説のピカソとして、ミステリー小説の可能性を大きく広げたように、パズル小説®は、決まりきった読み方のほかに、楽しい展開がありうるのだと、私は期待しています。
だから、面白いのです。ミステリー小説が大好きな少年が、大きくなって、ミステリー作家になるように、パズル小説®で育った人間が、やがてパズル小説®作家になる。私は、そういう世界を望んでいます。
それが実現したときに、パズル小説®は、私が定義したものよりも、もっと進んだ、とんでもなく面白いゲームになっているかもしれません。そのとき、ひょっとしたら「正解のない世界」があるかもしれないと、ちょっと期待したりして。