見えるか、見えないか

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絵というものは、不思議なものである。

同じ絵を観ていても、感じられる内容、質、それぞれの受け手で千差万別。そんななかで、私は、最近なのだが「ぼくは絵を見ることができる」と自信を深めてしまっている。

本当に、自分では言いにくいのだが、私の見えている世界が、みなさんの見えている世界と、少し違っているのかもしれないと、本気で気づいてしまった気になっている。

もちろん確かめようがないのだが、私は、絵を描くのは下手くそだが、観るのはうまい。これは、若いころから、よく言われてきたことだ。

たとえば銀ぞの吉井画廊でスーチーヌの展覧会が開かれたとき。私は、スーチーヌの色彩の美しさに引き込まれた。心を奪われてしまった。とくに、スーチーヌが自ら首をひねったと思われる「ほろほろ鳥」には驚いた。

たぶん高校2年生だったと思うが、授業をサボって3日間ほど通い詰めた。すると支配人から声を掛けられた。

「君、学生さんだよね。見えるの?」

最初は何のことかわからなかったが、私には鮮やかな色彩に思われたスーチーヌの絵が、多くの人は、その色彩の美しさに気付かず「ゴッホのようだ」という感想をもらうという。

そこから、吉井画廊の支配人だったと思うが、面白い個展があると自宅に案内の封書をもらうようになった。確かに、私には「見えていた」のである。

その後、50年もの歳月を経て、九死に一生を得た私は、改めて「臨死体験」で色彩の狂乱のなかでのたうちまわっていたとき、幻覚を体験しながら、本当にたくさんの色彩を体感していた。

そして、改めて今、大好きなスターレの絵を見ていて「この絵の良さがわかるなら、いずれ、こういう絵が描けるようになるのではないか」という、希望の光を観ていることになる。

私は、観ることができる。私が観て「いい」と思える絵があったら、私と似たような色彩感覚がある人なら、きっと気に入ってくれるはず、と、今は思っている。だから、いっそ晩年は、画家として大成しようと、本気で考えている。

2025年2月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster