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旅の始まり
私は、いつから人生が旅に似ていると意識したのだろうか。少なくとも12歳の頃には、そんなことは思いもせず、過ごしていたはずだ。
いや、小学2年生のとき、担任の戸塚光枝さんに逢いたくて、小石君と二人で、自転車を漕いだ。住所が頼りだったが、とうとう、逢えなかった。それでも、見知らぬ街に来た事は、どきどきの連続だった。
西部グループのボーイスカウトのような組織に入っていたので、夏にはCampで2泊、3泊は当たり前。日常生活では考えられない時空、体験が、そこにあった。そして、いつしか、旅にあこがれていた。
旅へのあこがれは、確かにあった。
小学6年生の修学旅行で日光に行き、中学3年生の修学旅行で京都・奈良に行った。日常生活とは別の場所に身を置くことが、私の旅の定義だった。加えて、家族旅行もたくさんした。
父は、小学生の私を自主休校させて、伊豆大島、伊東、箱根、志賀高原、清里など、平日の安いときに、家族旅行をさせていた。学校よりも、世界には「ステキな場所がたくさんある」ということを、体験させたかったのだと思う。
たぶん、一年に1週間ほど、私は熱を出して学校に行かなかったが、いろいろな景色にふれて、美味しいものを食べ、絵を描いて、詩をのこしていた。
なんだか、さかのぼれば、やはり子供時代になるのだろう。少年時代、地方に「ふるさと」のない都会育ちの私は、お盆休みで、級友が帰省する代わりに、勝手に、あちこちに旅をするようになっていた。
そもそも、12歳から、アパートで一人ぐらしをしている少年は、珍しい。だから自転車で旅にでたし、小学生のときにハイキングで歩いた山に、自分ひとりで行くようになった。
極めつけは、1980年、半年のヨーロッパ外遊か。あれ以来、小さな旅を重ねているが、大きな旅は、体験していない。出張で、1週間ほど外国ぐらしをしたことも、たぶん20回ほどあるけれど、そのなかで自由な旅は、いずれも、1日か、ほんの数日。
家族をもち、子どもたちを連れて家族旅行に行ったものの、それは、自由な旅ではなかった。仕事で出張し、終わったら数時間、ときには自腹で泊り、散策はしたものの、旅ではなかった、
そして私は、いつしか「人生そのものが、旅路なんだ」と思い込むようになった。どこにいても、毎日、同じ場所にいても、ICUで拘束されていなければ、私は自由に歩き回ることができる。
旅の醍醐味。
本日、山のような仕事を抱えて、出張にいくのだけれど、9月19日、69歳の誕生日には、自分と向き合うたびにでよう。

誰かが光を観ている
何故、大吉くじを制作するのか。なぜ、どんどん配ってしまうのか。決して、儲かるわけでもないのに? それは、金儲けにはなりません。人儲けにもなりません。では、大吉くじを制作するベネフィットは何でしょう。
私は、大吉くじを1万人に配布できたら。そのなかの数人が、大吉くじを引くことによって、また大吉くじを「お守り」として持つことによって、心が「ほっ」としたり、ちょっとだけ勇気を得たり、ちょっとほっこりしたりする、そんなことが起きると信じているからです。
自分が、そうでした。18歳まで、おみくじとは無縁の「暗い穴」に落ちていた私は、途中、京都、奈良、浅草、鎌倉などを旅するなかで、安価なおみくじを引くようになり、財布にしのばせるようになっていたのです。
自分が、それで救われたのだから、自分と同じような危機に瀕している人も、大吉くじを引くことで、大吉であることそのもので、そこに書いてある言葉で、もう一度、生きようと思ってくれると、私は、本気で信じています。
そのような感性、価値観の人は、1万人探しても、何人もいないかもしれません。ですから、ビジネスにはなりません。でも、ビジネスにならないからこそ、誰かが命がけで取り組む必要があるのです。
私は、そのこちに賭けています。誰も、大吉くじに対する私の気持ちは、理解できないかもしれません。しかし、いつか、千羽鶴を折るように、大吉くじを制作して配布する文化が広がることを期待しています。
絶対に、どこかに、大吉くじに光を見出す人がいるはずです。その人に向けて、私は、どんどん、大吉くじを制作していきます。

どこまで来ているのか
もし、近くに「死」があるとしたら、自分は過去に目を向ける。もし、死が近づいていることがわかったら、これからどうしようということよりも、自分は何を成し遂げたのかと振り返るだろう。
逆にいえば、ついつい過去を振り返ってしまうということは、死が近くにある証拠になるかもしれない。自分はまだ、ついつい過去を振り返る余裕はない。だから、たぶん、死は近くにあるわけではない。
だからといって、それがはるか遠くということもない。明日ということはなくても、来月ということは、十分にありうる。だからこそ、たまに、自分の立ち位置を確認することになる。
どこまで、きているのか。これから、何をしたいのか。
その一つ、実は「絵」を描いてみたいと思っている自分がいる。今頃、絵を描いたとしても、誰も認めてくれないだろう。それでもかまわない。私は、自分の描いた絵を、作品を、自分が好きになっている作品を遺す。
他の誰でもない、自分が生きた証として。そして、希望的観測だが、ひょっとしたら、一枚か二枚、自分にとってもいい絵が描けるのではないかと思っている。それは、やってみないとわからない。
というわけで、命がけの旅にでることになった。何が生まれるか、また、何も生まれないか。それは、行動してみなければ、わからない。そして、何をしてはいけないかも、わかっている。
死なない程度に、がんばります。

やっぱり、コツコツと
みなさん、三連休の初日、いかがお過ごしでしょうか。(という枕詞は、本ブログの主旨にそぐわないので、これからは省略させていただきます。いきなり本題の時代です)
kindle出版プロデューサーの案内ビデオを5本観て、資料を読み込み、オンライン説明会にも参加して3時間半ほど、説明を伺いました。そして、主旨には賛同したものの、半年で100万円という価格設定に納得しつつ、「私にとっては実質5万円の価値」と判断して、撤退させてもらいました。
ずいぶん勉強になりました。ひょっとしたら、何かメールでもいただけるかなと思っていたのですが、こちらが引いて以来、毎日来ていた「励ましメール」もなくなり、勧誘もありません。まぁ、私の素性もバレていますから、めんどうなことは避けているということでしょう。
プロモーションでは「見込み客の発見」とともに「見込みのない客」の排除も重要な役割です。100万円を支払わない私には、もう要はないのですね。逆に、潔く、あきらめてくれたので、私としては、まぁ、よかったと思っています。
たぶん、その日の参加者約10人中1~2人が100万円を支払って、kindle出版プロデューサーになろうと、がんばるのだと思います。ただ、私にとっては、Communityに参加して得られるベネフィットは少ない。だって自分でkindle出版はできてしまうし、出版プロデュースもできてしまうから。
というわけで、今後ね。Amazonでプレミアム大吉くじセットの販売を模索しますし、大吉WAKA集2025は、kindle出版で実現しましょう。お楽しみに。

kindle出版プロデューサー
みなさん、お元気ですか?
私の事務所には3台のPCがあります。今日は、暑くて使っていなかった部屋にあるPCを調整し、試しに描いてみることにしました。書きたかったのは、明日、kindle出版プロデューサーになるための「案内」としてねウェビナーをうけること。
思い起こせば、日本ビジネス作家協会を思い付いてから、早20年。日本ビジネス作家協会は成長できないままソフトランディングし、東日本大震災とともに消えていきました。
その代わり、謎解きクロスとパズル小説、そして大吉くじと大吉BINGOによる地域活性で、私は社会貢献しています。
ただ、2005年12月に講談社現代新書「週末作家入門」を上梓させていただいたときから、自分も含めて、ものづくりをした人生を充実させたい人を支援する姿勢は変わっていません。
たぶん、プロデュースできたのは、10人に満たないと思いますが、それでも「本を出せた」と喜んでもらえています。なかにはベストセラーになり、支援している私をさくっと越えてしまった人もいました。とっても名誉なことでした。
そんな私が、2023年8月に九死に一生を得て、残りの人生を考えたときに、まだまだ実現していなかった自分まの創作活動とともに、もっと多くのみなさんの支援を実現したいという強い思いにかられています。
無理をせず、みなさんの見本になりながら、たった一人で創作活動を続けながら、kindle出版でコンテンツを100冊、kindle出版プロデュースで、みなさんを支援する事業を10シリーズくらい進めていきたいと思っています。
また、成果は本ブログでシェアします。
