あのとき、何を感じたのか

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エッセイのようなものを書きます。

今日は、1月17日。阪神淡路大震災が起きた日付です。1995年の1月17日、東京にいた自分が、テレビのニュースで神戸で大きな地震があったことを知り、時代のめぐりあわせのようなことを、不謹慎かもしれませんが、感じていたのを覚えています。

数字というものには、その並び自体には、きっと「意味」はないのでしょう。昨日が1月16日で、今日が17日。明日が18日だろうという認識を超えて、「数字の特別なめぐりあわせ」などというものは、おそらくないはず。

それでも、1995.1.17があり、2001.9.11があり、2011.3.11があるわけです。ある日付の数字は、結果論になるのでしょうが、特別な意味があるようにもみえてきます。

言葉には意味があり、ときとして魂が宿る。そんなことを考えているから、謎解きクロスのようなペンシルパズルを生み出したのだと思いますが、だったら数字にも特別な意味があってしかるべきというように思いたい自分がいます。

そして、その特別な意味がある日に、自分が生きていたことが、とても貴重なことに感じますし、何か、自分にもできることがあるような、歴史として、特別な日付として記憶されるその日に、自分が生きていたことの「めぐりあわせ」を考えたりします。

私の大好きだった人は、2011.3.11を経験しないで、亡くなりました。同じように、1955.1.17を経験しないで亡くなった友人もいます。何か、特別な日に、生きていたということは、その出来事とも、何らかの関係があるのだと、信じたくなってしまうのです。

特別なことが起きた日が、その後、特別な日として記録され、記憶される。そのことと、特別な日には、特別なことが起こるということは、逆は必ずしも真ならずということで、正しいのか、そうでないのか、判断に迷います。

それでも、今日という日が、自分の何かを刺激していることは事実です。何か、ものをつくりたくなるのは、そういう日なのです。

 

2018年1月17日 | カテゴリー : , 読み物 | 投稿者 : wpmaster