生成AIとの付き合い方

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生成AIに短歌を作らせ、おまけに英訳までお願いしたら、75点くらいの、正しいけれども微妙な短歌を考えてくれた。そこで、よくよく考えてみた。

この技術を、私は、どのように活用すれば、いいのだろう、と。結論は、わかっている。ただ本当に、それで大丈夫かと、研修を重ねた。人体実験である。

この考察は、生成AIに限らず、テレビやネット、というよりもコンテンツ全般にわたるものだった。スマホやテレビやネットやSNSが悪いのではなく、「使い方」なのである。

クリエイティブな生活は人間にとって大変重要なもの。クリエイティビティこそ、私たち人類のもつ「宝物」なのである。その宝物が、AIに奪われようとしている。

そう考えたときに、思い当たることが少なくなかった。そして自分の生活を振り返って、三人の言葉を思い出した。

まず、在原業平の和歌。

「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」

~2023年8月22日、急性大動脈解離で救命搬送された私は、ICUに入る前に、あまりにも突然の入院だったので、辞世の句を古今和歌集に借り、長男に伝えていた。

1週間後、九死に一生を得て、何とか生還した私は、その後1か月間ほどすべての情報から遮断された病室で過ごした。

そのチカラを借り、1年後、2024年9月19日に千葉太海で50点余の「ハガキ絵」を制作。それは、かつて画家を志していた私にとって生存を確認できる重要な手段でもあった。

その後、減塩・禁酒生活をつづけながら、スマホ断ちをしたり、都会断ちをしたり、試行錯誤を繰り返した。そして、改めて、あま偉大な哲学の巨人に思い当たった。

デカルト「我思う。故に我在り」

パスカル「人間は、考える葦である」

詳細は省くが、生命があることの奇跡を実感できた私にとって、宇宙を考え、人間存在の意味を考えることは自然なことであった。

それに対して、テレビやネットでシャワーのように流れてくる情報が、いかに空しいものか、思い知らされる。世の中は便利だけれども、自分にとっては、よくない面もある。

前からテレビのコンテンツ、とくにバラエティは大嫌いで、なるべく観ないようにしてきたが、なぜ、嫌いか、改めて確認できた。

テレビも、ネットも、バラエティと呼ばれるコンテンツは、例外なく、私の生きるチカラ、想像するチカラを奪っている。元気がなくなる。それに尽きる。

ただ、スマホが悪いわけではなかった。スマホ断ちでは、仕事にならない。問題はスマホではなくコンテンツである。必要な情報は、ちゃんと価値を生むので受信してokとなる。

ちょっと、省略するが、生成aiも、似たような視点で使ってみて、確認できたことがある。

短歌を作らせたり、イラストを作らせたりしても大活躍している生成aiだが、クリエイティブな部分を生成aiに任せてはいけないと私は思っている。

なぜか。

それは、クリエイティビティが、人間存在の根源に係っているからに他ならない。

ゼロからイチを生む楽しさこそ、人間を鍛え、進歩させ、そして何よりも「幸せ」にしてきた。クリエてぃぷな作業は、達成感、到達感を生み、それが大きな幸福感につながる。

その、一番大切な、デカルトとパスカルの発見した人間存在の根源を、あっさりと生成AIに差し出してはいけない。

一番美味しいところを、他人にあげてどうする。生成AIに上げて、どうするのか。バラエティは他人のommunityの楽しさであり、出演者の幸せであり、自分のものではない。

結局、そういうことだ。

私がカーナビを使わず、地図情報のみを使って運転しているのも、同じ理由。ドライブの楽しさが、カーナビによって半減してしまう。

私たちは、旅人である。

旅は、自分で考え、自分で行動するから楽しい。観光ツアーも決して悪くはないけれど、それだけに固執すると「旅」での感動がうすれていく。

自由な「旅」こそ、人生の醍醐味。

旅人は、移動の効率を求めたり、損得で旅先を判断することはしない。出逢いを「金」で測ったりもしない。

生成AIとも、テレビとも、ネットとも、SNSとも、私は自由にアクセスして、自由に活用する。ただし、向こうから一方的に意見を押し付けてくるようなコンテンツは、観ない。

まあ、そんな感じなんです。はい。

2025年2月23日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster