ブログ
ブログ一覧
見えるか、見えないか
絵というものは、不思議なものである。
同じ絵を観ていても、感じられる内容、質、それぞれの受け手で千差万別。そんななかで、私は、最近なのだが「ぼくは絵を見ることができる」と自信を深めてしまっている。
本当に、自分では言いにくいのだが、私の見えている世界が、みなさんの見えている世界と、少し違っているのかもしれないと、本気で気づいてしまった気になっている。
もちろん確かめようがないのだが、私は、絵を描くのは下手くそだが、観るのはうまい。これは、若いころから、よく言われてきたことだ。
たとえば銀ぞの吉井画廊でスーチーヌの展覧会が開かれたとき。私は、スーチーヌの色彩の美しさに引き込まれた。心を奪われてしまった。とくに、スーチーヌが自ら首をひねったと思われる「ほろほろ鳥」には驚いた。
たぶん高校2年生だったと思うが、授業をサボって3日間ほど通い詰めた。すると支配人から声を掛けられた。
「君、学生さんだよね。見えるの?」
最初は何のことかわからなかったが、私には鮮やかな色彩に思われたスーチーヌの絵が、多くの人は、その色彩の美しさに気付かず「ゴッホのようだ」という感想をもらうという。
そこから、吉井画廊の支配人だったと思うが、面白い個展があると自宅に案内の封書をもらうようになった。確かに、私には「見えていた」のである。
その後、50年もの歳月を経て、九死に一生を得た私は、改めて「臨死体験」で色彩の狂乱のなかでのたうちまわっていたとき、幻覚を体験しながら、本当にたくさんの色彩を体感していた。
そして、改めて今、大好きなスターレの絵を見ていて「この絵の良さがわかるなら、いずれ、こういう絵が描けるようになるのではないか」という、希望の光を観ていることになる。
私は、観ることができる。私が観て「いい」と思える絵があったら、私と似たような色彩感覚がある人なら、きっと気に入ってくれるはず、と、今は思っている。だから、いっそ晩年は、画家として大成しようと、本気で考えている。

いつか、マスメディアで逢いましょう
フジテレビの屋台船が、大きくゆらいでいる。
私の人生で、テレビや大手新聞などのマスメディアとの関わりは、ほとんどない。ひたすら、地を這うように、メディアは「本」と決めていた。もちろん、テレビや新聞からのアプローチはなかった。
本を出し、講演をする。それがメディアとの、付き合い方。かつてテレビの出演依頼が来たことも2度あったが、ディレクターとの面接で、話はなくなった。
一度目は「でかすぎて尺に合わない」とのこと。まあ、15歳のときに原宿で新日本プロレスに誘われたくらいだから、ふつうの尺に合うはずがない。
逆に2回目、日本一背の高いコンサルタントというキャラでディレクターに合ったが、「廣川さん小さすぎ」と没。ジョン・ケネス・ガルブレイス は実際にお逢いしたこともあるが、確かに私より10cmは高かった。
そして今。何となく、マスメディアに登場する機会があるような気がしてきた。だって、彼らは今「斜陽ビジネス」に数えられているから。中小企業応援団として、大好きな社長さんたちを支援してきた私のターゲットに、いよいよマスメディアも入ってきたからだ。
ただ、私が描いてきたビジョンは、マスメディアでの成功ではない。ひたすら、ベストセラー作家になること。
謎解きクロス→パズル小説→大吉くじ→大吉BINGOという流れが、必ずベストセラーのつながると信じているのは、今は、私一人かもしれない。でも、宇宙のビッグバンと同じで、一度、生まれたら、一気にインフレーションモデル同様、日本、そして世界に広がっていく。
一人、100円いただければ、100万人で1億円。私は、100円の利益が出るようなベストセラーを書いたら、全国を行脚し、地域活性の仕掛けとして謎解きクロスやパズル小説を無償で書き、手作りの大吉くじを配布して歩くだろう。
春には、倉敷方面に行きます。

やっと誰かが
今、4年前にコロナ禍を契機に始めたサポーターのみなさんに支えられて創作した「そして誰も死ななかった(仮題)」の全面改正を企画している。そのなかで、考えているのがアガサ・クリスティの活用のこと。
ミステリー小説を書きたいと思った人は誰でも、アガサ・クリスティの発想力に打たれたことがあると思う。美術界のピカソという感じで、彼女は本格推理小説の可能性を拡大した。
たとえば、ピカソの後には、新しい絵画を生み出せない。アインシュタインの後には、誰も時空についての理論を生み出せない。エジソンの後には、誰も新発明はできない、というくらい、彼らは革新的だった。
しかし、時間はかかったけれども、その後も人類の創作意欲は衰えなかった。なので私も、先人の天才に心おられながらも、何とか、別のアプローチができないか、探ってきた。
そして古希を迎える年になった、ふりかえると、ようやく作家の足元に立っていることが実感されてきた。絵画では、ハガキ絵のジャンルならピカソに近づける。
アインシュタインには、コンセプトで出さんで対抗できるだろう。そしてエジソンには、大吉くじで、ようやく田下とに立てる気がしている。
永かった。
だも、足元に立っているということは、並んで歩きだせるということ。私は、ピカソがどうやって描いたかを知っている。アインシュタインが、どのように思考実験をしていたかも、脳がわかったいる。
同じように、アガサ・クリスティがなぜ、「そして誰もいなくなった」を描き切ることができたのか、知っている。それで今、スタート地点に立っているのだ。
あとは、何年、生きられるか。
80まで生きられたら、そこそこの作家になっている。90まで生きていたら、代表作はベストセラーになっている。そして99歳、白寿まで生きていたら、巨匠になっているだろう。
でも、そのころにお金が入っても、夢の世界旅行に出られる体力も意欲もないだろう。
前倒しにできないか。それは、私が決めることではありません。神のみぞ知るということで、私は日々、大吉WAKA集の編纂をしながら、日々こつこつと、自分のできることをやっていくだけです。

観たけれど見られなかった
だいたいにおいて、人は「自分が観たいものしか見えない」らしい。だから有言実行を心がける。少なくとも、自分で言ったこと、約束したことは見えてくるものだから。
で、CampfireのCommunityの話。今もって、どうも毎月3000名くらいの人が、コミュニティを訪れている。ただりCommunity会員は、いまもって7名のままなのである。
実は、いつ「退会されてしまう」か、とても気になっている。とくに毎月3800円も支払ってくださるお二方。で、一人は大阪在住。いただいている会費で、交通費にさせていただいた。
もう一人の怪異には、静岡在住。こちらは、交通費プラス2万円のイベント券を購入させていただきました。自分でも、「お値段以上を返さないと気が済まない」性格ゆえ、お金はたまらないと、つくづく思っている。
ただ、それでも少しずつ「メジャーデビュー」したときのために、準備を続けている。だから、今は大赤字で、先行投資が重なるばかりではあるものの、あまり心配していない。
2月には、地域の書店さんへのアプローチが始まる。
本業であるコンサル業も、本格的な勉強に入っている。新しいコンセプトが、今ほど求められる時代はない。コンセプトデザインこそ、次世代に伝えるべき遺産なのだと、気づく人も増えてきている。
ほんとに誰も知らなかった?
この夏に発刊予定の長編パズル小説「そして誰も知らなかった」は、どんなコンテンツになるのか。その内容は「ほんとに誰も知らなかったのか」というところが、Pointになっている。
何か起きたとき、「予兆」があったのに「気づかなかった」ということもある。昔は「そして誰も気づかなかった」になるだろうが、令和の小説では「本当に、知らなかった」ことを問題にしている。
真犯人が目の前にいるのに、誰も気づかなかったのだが、それは「まさか真犯人が自分たちの目の前にいるとは、気づかなかった」であり「その背景は、知らなかった」ということになる。
たとえば、目の前に、将来自分を殺害することになる人がいたとしても、未来のことなので「気づかない」のではなく、ほんとうに「知らない」ことになる。それが、本小説のテーマでもある。
私は、約70年も、生きてきてしまった。だから、自分の人生の目の前にターニングポイントが、いくつかあったことを知っている。今は「知っている」けれども、そのときは「知らなかった」ことになる。
要するに、あとになってみれば「大変なことが起きていた」ことを知っているけれども、その当時は「大変なことになる」という未来を知らなかった。だから、予兆にも気づかなかった。
それが、ターニングポイントでなければ、日々の何でもない現象であれば、まぁ、どうでもいい現実になる。たとえば「パートナー」との出逢いなど、人生を変える「瞬間」については、だいたい気づかないはず。
何度も、すれ違っているかもしれない。どちらかが、どちらかを、別々に発見しても、相手が誰だか知らなければ、人生と係ってくることはない。その人が、未来にどんな関係となるかを知らなければ、忘却してしまう。
コンテンツのテーマは「知っているのか、知らないのか。知っていたら気づけることも、知らなければ気づかずに、殺害されてしまうこともある。ただ、知っていても防げない現実もあるのかもしれない。
うーん、GWまで、空想を楽しみたい。
