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AIによろしく!
私は、AIのすばらしさを知っている。しかし、AIをクリエイティブな作業に使おうとは思わない。
なぜなら、クリエイティブという人間にとって一番大切で、苦しいけれども達成感のある行為を、手放したくはないからだ。
自分が作ったものよりも、ロボットが作った料理のほうが、結果としては「美味しい」と評価されるかもしれない。人間では、とてもできないアート作品も、AIなら、あっという間につくり出してくれる。
ただ、そこにはクリエイティブな場面はない。一番おいしいところ、生きていてよかったと思える瞬間がないまま、結果だけが「整ってしまう」ことになる。
自分で考えること。自分で手を動かしい、つくりあげること。AIにやらせたほうが効率的で、作品も、世界のクリエイターの「いいとこどり」をしてくるので、完璧にみえるかもしれない。
ただし、そこには人間特有の「あそび」がない。
あそびがない時間は、プロセスが「つまらない」ので、人間に達成感や充実感、幸福感をもたらすことはない。
私は、生成AIが生み出した疑似アートには、違和感を感じる。写真でもそうだ。生成AIがつくり出した絶世の美女には、一分のスキもない。しかし、3秒で「あきる」。
手前みそになるが、私が自分で描いた絵は、3時間、飾っていても、あきない。それどころか、30年飾っていても、いつも「お、なかなかやるじゃないか」と感じられる。
それは、苦労して自分で描いたという体験があるからだ。
他の人には、その体験がない。なので、私の絵は、私が思っているほど、価値はないだろう。
それでいいと、私は思っている。そして、私のように、みんなに「自分で描いた絵」を学に入れて飾ってほしいと思っている。それが、私の使命、ミッションとなる。
私は、実売価格5000円で、自分の描いた絵を提供したいと思っている。額に入れて8000円。それで儲けるつもりはない。ただ、その絵が気に入ったら、ずっと飾っておいてほしい。
そして、自分にとっての「絵」を発見して、それを飾って、生活のなかに「自己肯定感」を生む場をつくっていただきたい。それが私のミッションなのである。
大吉くじは、AIにはできない。だから、私が、一つひとつ、手作りをしている。
そして、私が大吉くじを作っているとき、幸せな時間を過ごしていることを、感じ取っていただきたい。
すでに、1万個以上の大吉くじを制作した。
その時間、私は、とても幸せだった。これをロボットや、コンテンツ制作、考えることをAIに任せてしまったら、人生の楽しみはなくなってしまうだろう。
これが、生成AIとの「付き合い方」なのである。
あ、さうだ。大吉くじについて、AIに聞いてみよう。chatGPTは、知っているだろうか。

棋士は考えている
将棋が大好きだ。棋力は、とてつもなく低い。覚えたての子ども相手なら、たまに勝てるかもしれない。ふつうにやれば、すぐに負ける。
そもそも勝負する気がない。それでも、こちらの射した手に対して、どんな手を打ってくるか、未来が楽しみで仕方ない。もし、勝ちそうになっても、正解とは別の手を指す。
そんな私だけれど、将棋界のことは、ずっとウォッチしている。何せ、従妹が日本初の女流棋士の一人だったから。将棋新聞も、初回から10年くらいとっていた。
なので、棋士がAIにはかなわないとわかったとき、「もう将棋に関心を持つのはやめよう」と思ってしまった。ところが、藤井さんがすい星のごとく現れて、変わった。
棋士は、考えて、将棋を指している。それに対して、AIは考えていない。それでも、考えている人間がかなわないほど、強い。その現実が、将棋の世界なのである。
これは、生成AIとの付き合い方を示唆してくれる。
人間は、考えることから、逃げてはいけない。下手な考え休むに似たりであるにせよ、考えることそのものが、人間の特権なのだから。
AIは、将棋を指しているのでもない。だから、勝っても負けても、行動は変わらない。しかし、人間は考えている。だから、幸せにもなれるし、不幸のどん底にも落ち込む。
もっと、自分で考えたい。私は、もう遅いけれども、最近また、宇宙について考え始めた。だって、AIは、宇宙について計算することはできても、考えることはできないから。
いずれ、量子コンピュータができてしまえば、計算では、どんな転載も、かなわなくなる。それでも、量子コンピュータは、考えているわけではない。
AIは、ひたすら計算している。そして予言してしまうが、シンギュラリティがくると思われたときにも、AIは、考えていない。初期値によって、ブレてしまうから。
カオス理論と、ゲーデルの証明がある限り、AIは「考える人間」を超えることはできない。だってAIは、整数で計算しているだけだから。
プランク定数も、超弦理論の振動も、どんなに深く、多次元で計算をしても、「考える」ことはできない。
そして考えることこそ、人間存在の本質。それゆえ、私は毎晩、宇宙論を半数して、眠りにつく。いつ、死んでもいいように、何度も何度も、考えている。

生成AIとの付き合い方
生成AIに短歌を作らせ、おまけに英訳までお願いしたら、75点くらいの、正しいけれども微妙な短歌を考えてくれた。そこで、よくよく考えてみた。
この技術を、私は、どのように活用すれば、いいのだろう、と。結論は、わかっている。ただ本当に、それで大丈夫かと、研修を重ねた。人体実験である。
この考察は、生成AIに限らず、テレビやネット、というよりもコンテンツ全般にわたるものだった。スマホやテレビやネットやSNSが悪いのではなく、「使い方」なのである。
クリエイティブな生活は人間にとって大変重要なもの。クリエイティビティこそ、私たち人類のもつ「宝物」なのである。その宝物が、AIに奪われようとしている。
そう考えたときに、思い当たることが少なくなかった。そして自分の生活を振り返って、三人の言葉を思い出した。
まず、在原業平の和歌。
「つひにゆく 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」
~2023年8月22日、急性大動脈解離で救命搬送された私は、ICUに入る前に、あまりにも突然の入院だったので、辞世の句を古今和歌集に借り、長男に伝えていた。
1週間後、九死に一生を得て、何とか生還した私は、その後1か月間ほどすべての情報から遮断された病室で過ごした。
そのチカラを借り、1年後、2024年9月19日に千葉太海で50点余の「ハガキ絵」を制作。それは、かつて画家を志していた私にとって生存を確認できる重要な手段でもあった。
その後、減塩・禁酒生活をつづけながら、スマホ断ちをしたり、都会断ちをしたり、試行錯誤を繰り返した。そして、改めて、あま偉大な哲学の巨人に思い当たった。
デカルト「我思う。故に我在り」
パスカル「人間は、考える葦である」
詳細は省くが、生命があることの奇跡を実感できた私にとって、宇宙を考え、人間存在の意味を考えることは自然なことであった。
それに対して、テレビやネットでシャワーのように流れてくる情報が、いかに空しいものか、思い知らされる。世の中は便利だけれども、自分にとっては、よくない面もある。
前からテレビのコンテンツ、とくにバラエティは大嫌いで、なるべく観ないようにしてきたが、なぜ、嫌いか、改めて確認できた。
テレビも、ネットも、バラエティと呼ばれるコンテンツは、例外なく、私の生きるチカラ、想像するチカラを奪っている。元気がなくなる。それに尽きる。
ただ、スマホが悪いわけではなかった。スマホ断ちでは、仕事にならない。問題はスマホではなくコンテンツである。必要な情報は、ちゃんと価値を生むので受信してokとなる。
ちょっと、省略するが、生成aiも、似たような視点で使ってみて、確認できたことがある。
短歌を作らせたり、イラストを作らせたりしても大活躍している生成aiだが、クリエイティブな部分を生成aiに任せてはいけないと私は思っている。
なぜか。
それは、クリエイティビティが、人間存在の根源に係っているからに他ならない。
ゼロからイチを生む楽しさこそ、人間を鍛え、進歩させ、そして何よりも「幸せ」にしてきた。クリエてぃぷな作業は、達成感、到達感を生み、それが大きな幸福感につながる。
その、一番大切な、デカルトとパスカルの発見した人間存在の根源を、あっさりと生成AIに差し出してはいけない。
一番美味しいところを、他人にあげてどうする。生成AIに上げて、どうするのか。バラエティは他人のommunityの楽しさであり、出演者の幸せであり、自分のものではない。
結局、そういうことだ。
私がカーナビを使わず、地図情報のみを使って運転しているのも、同じ理由。ドライブの楽しさが、カーナビによって半減してしまう。
私たちは、旅人である。
旅は、自分で考え、自分で行動するから楽しい。観光ツアーも決して悪くはないけれど、それだけに固執すると「旅」での感動がうすれていく。
自由な「旅」こそ、人生の醍醐味。
旅人は、移動の効率を求めたり、損得で旅先を判断することはしない。出逢いを「金」で測ったりもしない。
生成AIとも、テレビとも、ネットとも、SNSとも、私は自由にアクセスして、自由に活用する。ただし、向こうから一方的に意見を押し付けてくるようなコンテンツは、観ない。
まあ、そんな感じなんです。はい。

ゲーデル証明の壁
量子もつれが起こるような物理論体系を、さびた頭で考えていると、結局、10代のころに考えていた一般相対性理論の謎に行き当たる。量子力学と宇宙論との整合性も気になるし、ローレンツ方程式も気になる。
そして、いきつくところは、そもそも全宇宙で、前次官で、数学的な論理が、いつも成立していたと、なぜ、いえるのかという根本的な問いかけに帰結していく。
数学で記述できるということは、世界が、宇宙が、論理的な思考で理解できるということの証でもある。自分が今、138億年の時間を超えて、生きているのにも、理由がある。
もし、途中で宇宙が論理破綻を起こしていたら、私の存在は「無」に記していたはずだ。宇宙が、こんなに秩序だってみえていることも、世界が数学で記述できることを暗示している。
ただし、宇宙全体を記述できるような、超数学のような存在は、ない。これは、ゲーデルが、自ら精神を病んでまで突き詰めて考えた結果であり、おそらく、正しい証明からきている。
いずれにせよ、50年も前に「私には、とても解けない」と気づいてから、ふれてこなかった宇宙論を、今、命の危機を経験した者として、九死に一生を得た側の人間として、私は気になっていることになる。
結局、宇宙がどうなっているのか、私は、知らないまま、物質に戻ることになる。それは、誰もが通らなければいけない生命あるものの定めではあるものの、なるべく、先延ばしにしたい瞬間でもある。
ただ、逃げるわけにはいかない。
というわけで、私は4月に、こっそり2週間、改めて快復手術をすることとなった。そこは、恩人である石橋会長も、開腹手術をしたことのある医大病院である。
うっかり死んでしまってもいいように、今、寸暇を惜しんで「ハガキ絵」の複製作品の制作を続けている。いろいろ考えているのだが、1点1200円での販売が、現実的だと思うようになった。
その代わり、オリジナルの100点は、25000円での販売とする。100点売れても、250万円にしかならないが、お別れ会の費用くらいにはなってほしい。
明日、また海の絵を描こう。

統一時間などない
前回、量子もつれのほどきかたについて、サクッと、けっこう重要な指摘をしてしまった。理論物理学に関心のうすい方は、何のことか、わからないと思うので、ちょっとだけ補足しておきたい。
酔うは「空間とは何か」であり、そこに超微細な「超弦の振動」として記述される基本単位についても「時間」が、変数として関わってくるという仮説について、考えているということ。
時間は、宇宙を構成する基本単位にも「振動」という状態の変化がある場合には必然的に、かかわってくる。基本的な「存在要素」なのである。3次元の「距離」とともに。
で、136億年前に宇宙が誕生したとして、そのときの「時間」と、136億ねん立っている現在の「時間」と、その本質は、変わっていないのかという問題がでてくる。
私の周辺の「時間」と、あなたの周辺の時間は、原子時計で図れば「同期」をとれるのかもしれない。しかし、遠く離れた「場所」と、遠くはなら田「過去」にあった時間が、同じものだという保証はない。
もし、超弦理論が完成したとして、そこで表現される物理法則が、遠く離れていても、はるか昔と破格しても「同じ」としていいのかという問題がある。
統一された時間など、ないという見解もあるだろう。いや、超弦の振動こそが世界の本質なのだから、超弦レベルの動きの状態を記述するときに活用した「時間」は、遠く離れた場所にあっても「同じペースで時を刻む」とみていいはず。
その理由。もし、そう考えられないとしたら、宇宙は、こんなに秩序があるような状態にはなっていないむはずだから。
時間については、本質的な問題なので、次元との関係を含めて、まだまだ、駆け寄っていく必要がある。
