2026年7月から、実は「収入」がなくなった。まあ、いつかはやってくる老いにあらがうことはできない。老いとは、身体や心だけではなく、社会の目も「老い」をみつけて、離れていく。
そもそも、これまで私を支えてくれていたサポーターのみなさん自身も、だいたい古希前後の世代なので、そろそろ「老い」の陰がちらつく。
もちろん、本当の「老い」が100歳だとしても、7歳にもなれば節々は痛んでくるし、80代、90代も、なんとなく創造がつく。
これが、若い頃は「創造もしない世界」ではあった。数年前、京都に行ったときに、15歳の夏に京都を3週間ほど、一人旅をしたことを想い出した。
これは「祇園」という季刊誌にエッセイとして書いたことがあるのだが、高校1年生の私は、京都にいた高齢者のことを一人も覚えてはいなかった。せいぜい意識していたのは、せいぜい、父母の世代まで。
その意味で、私が初めて意識できた老人は、16歳の誕生日に鎌倉の近代美術館で遭った川端康成ではなかったか。
私は、荻須高徳画伯の凱旋展示会にいて、一枚の絵と対峙していた。そうしたら、いきなりスポットライトを浴びて「もう体感時間を過ぎているのでお帰り下さい」と言われたのだが。
私の支線の向こうには、カメラを抱えた、たくさんの新聞記者たち。その集団のど真ん中には、和装の川端康成と、その奥さんが、大きな花束を抱えて、立っていた。
ギロリとした目が私をにらみつけ、老人は「チッ」と舌打ちした。
それが、中学生のときから愛読していたノーベル賞作家の川端康成だと、すぐにわかった。わかったけれども、どうすることもできなかった。
翌年の春、彼はガスホースを口にくわえて自殺する。私は、改めて川端作品を読み直し、そこにある「世界」に浸り続けた。
とくに短編の「片腕」は、繰り返し読んだ。たぶん、100回くらい読んだ。最初から最後まで、川端康成の世界が波打っていた。
後に、編集者要請コースに通い、川端康成から原稿をもらいにいったことがある文芸評論家から、こんな話を聴いた。
「あるとき川端先生は自分で描いた原稿に~〇〇的~という表現があるのが気に入らず、朝から悩んでいた。真夜中まで悩み続け、結局、その日は表現が見当たらなかった。翌日も、同じところで悩みつづけ、ようやく別の言葉に換えて、原稿がもらえた」
自分の世界を、そこまで追求し続けた結果が、あの世界。
その彼の世界に、荻須高徳の絵も関わってきたのに、邪魔な若者がいた。しかも、300点もある絵から、自分が一番気に入った絵の前で、1時間も観続けている、らしい。
他にも有名な絵がたくさんあるのに、私は、川端が気になる絵を選んだ。だから「チっ」と、されてしまったのかもしれない。
握手して、持っていた川端康成の短編集にサインがもらえたら、私は、若くして文壇に近づけたのかもしれない。
運命の糸は、そこでは交差しなかった。
私が、村上龍に逢って「限りなく透明に近いブルー」にサインをしてもらい、握手をしたのは、川端康成と対峙した経験から、してしまったことだと思う。
龍も、旅立った。
私は、まだ旅立てない。さまざまなエピソードを、心の奥底に鎮めながら、私はデビューの日を待っている。
