コンセプトデザインについて①

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人間とは、考える葦である

思想家パスカルが残した言葉。あまりにも有名なので、私も子どもの頃から、その言葉は知っていました。しかし、認知のレベルはといえば「葦は、脚ではなく、弱い存在の象徴」というあたりで、止まっていました。

コンセプトデザインという、アタマの中にある構造体を、外部の人がわかるように「見える化」する仕事についた1990年代以降も、考えるということを、真剣に突き詰めることはありませんでした。

しかし今、私たちは「考えること」を考える時代に入っています。

考えるということは、どんなことなんでしょうか。学習することと、考えることとは別ものです。私たちは、考えるために、学習したり、勉強したり、探求したり、調べたりしています。

考えることそのものが、目的になっているのが、私たち人間かもしれません。

しかし、考えるだけではサルでもできる(?)

サルを差別してしまったかもしれませんが、たぶん、脳がある生物だけではなく、あらゆる生物は、細胞そのものがつらなっている状態で、それが脳でない場所であっても、きっと「考えている」のです。

ただ、コンセプトデザインを研究していた、わかってきたことは、何かを考えても、いくら深く考えても、それが、自分の言葉として、あるいは形状としてイメージできないうちは、誰にも伝えることができない。もちろん、自分にも、伝えることができません。

自分にも、伝えられないということが「もどかしい」のです。

もどかしいけれども、何をすべきかを知っている気がする者の、夢のなかでは、とっくに解決しているはずなのに、いざ、目覚めてみると、何にも実態のある言葉がでてこない。それが、ふつうなのです。ですから、何度も何度も、私たちは考えることを続けます。いつも、考えている。すると、脳が、ちょっとだけ、ご褒美のようなものを提示してくれます。

なぜ、それを思いついたのか。わかりません。

ただ、パっとひらめくのです。そして、そのひらめきを追いかけていくと、そこに何か形になることができています。

それがコンセプトデザイン。

で、なぜ、謎解きクロスのブログで、コンセプトデザインのことについて、ふれようと思ったのかを書いておきます。

謎解きクロスを解く行為。とくに謎解きクロス5×5を解く行為が、コンセプトをデザイン化する動きに、ちょっと似ている気がしているからです。

ということは、実は、謎解きクロスが直観的に「脳トレ」になるとわかっているのですが、それはアタマにうかんだ、もやもやしたものを、一つの言葉を発見することで、つなぐ行為に当たるのでは。

私は、いずれ謎解きクロスを、1000万人の人々が楽しむようになるというドリームを持ち続けているのは、そんな確信からきています。

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