起死回生(5)

8月24日に急性大動脈解離てせ緊急入院し、九死に一生を得て、40日後に何とか退院をした私ですが、大動脈解離の原因が判明したわけではありません。

原因の候補は、いくつかありました。糖尿病、高血圧、メタボ、睡眠時無呼吸症候群、肝臓、甲状腺、副腎の三ヶ所にみつかった腫瘍、猛暑による疲労と一日15時間パソコンの前に座って原稿を書いていた悪しき習慣、などなど。

血管がボロボロになっていて、過度のストレスから、一気に太ももから心臓の手前まで亀裂が走ったらしい、とまではわかっているのですが、その原因がわからなければ再発防止の手立てがありません。

入院時は128キロありましたので「この人はメタボで、糖尿病に違いない」ということで、毎日血液検査をし、血糖値を調べていました。

高血圧の薬を飲み、便通の薬を飲み、血管を強くする薬を飲みました。その結果なのか、もともと大丈夫だったのか、大病した直接的な原因がわかりません。

眼科でも「絶対に眼底に糖尿病の症状がみつかる」という話でしたが、ちゃんと調べても「糖尿病の痕跡はみられない」とこと。

心臓も、1ヶ月ほど毎日、というか24時間、心電図を図って記録してあるのですが、不整脈が少しみられるくらいで、決定的な病は見当たらないとのことでした。

睡眠時無呼吸症候群の検査も、2日間しました。平均として1時間に64回、無呼吸になっていたそうで「即刻、何らかの治療を受けて」ということで、手術をする私立病院にも、申し送りが行われました。

ちなみに、入院時に128キロあった体重が108キロまでおちて退院となったのですが、私立病院では「1時間に何回か無呼吸のときがあったが、これくらいなら何も心配することはないということでした。

都立病院から、大動脈瘤の外科手術をするために移った私立病院でも、1週間の検査入院をして、カテーテルを入れて、心臓に至る血管をつぶさに調べてみても、「あ、血管は、とてもきれいですね」となります。

数値でいうと、50代前半の血管とのことですが「では、どうして大動脈解離になったのでしょう」と聞いてみても「不思議ですね。こんなに明確に、広範囲に裂けているのに、亀裂が心臓の手前で止まっているのも不思議」

最終的には、左の太ももにつながる大動脈の解離を防止する手術として、カテーテルを使って、プラチナでできたステントとか呼ばれる器具を埋め込む手術が行われる予定でいましたが、手術の数日前に、こう告げられました。

「ステントを入れてもいいんですが、身体に異物が入ることになり、将来、何か重大な悪さをする可能性もあります。廣川さんは手術に耐えられる状態ですから、カテーテルを使わず、開腹して直接、大動脈瘤を処置します」

その若い外科医は、他の病院から週2日だけ、心臓や血管の外科手術のためにこられている先生で、どうも「神の手」をお持ちらしい。なかなかのイケメンで、看護師にも、患者さんにも人気の様子。

ただ、私の薬の処方箋を書くときに、たとえば今日が11月12日なら、11月19日という日付を入れてしまい、私の薬が薬局で出せなかったり、手術以外のところではミスが多い。ちょっと天才肌のような雰囲気があります。

これは手術後のことですが、術後の経過をみてもらうために外来として、その先生のところに行ったときのこと。予約時間の2時間後に、ようやく診察となったが、カルテを書き始めてすぐ、緊急の呼び出し。

「すいません。ちょっと様子をみてきますので、5分くらい、ここでお待ちいただいても大丈夫ですか」と。私は、もちろん「わかりました。ここ(診察室)では落ち着かないので、外の長椅子のところにいます」と見送りました。

次に、若き神の手を持つ外科医が戻ってきたのは、3時間後。緊急の手術を、ひとつ、済ませてきたという。

私の大動脈瘤は、とても難しい位置にあったのですが、7時間の手術によって、大成功に終わったのです。麻酔が入ってから目が覚めるまで、夢をみることなく、私の身体は「外科手術後のICU」に運ばれたのでした。

2024年1月28日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

起死回生(4)

ありがたいことに、えちごトキめき鉄道の鳥塚社長が、地域を元気にするブログで、本ブログを取り上げてくれました。

私の読者は通常は一桁。たまに二桁にいくこともありますが、コンスタントに数百人、ときに数千人の読み手をもつ鳥塚さんに取り上げられたのです。感謝しかありません。

元気になって、4月から起死回生の人生を歩みます。

さて、しばらく休んでいた本ブログ、再開してみます。まだ本調子ではなく、身体を「タテ」にしている時間も限られ、いきなり中断してベッドで「ヨコ」になるかもしれない不安もありますが、始めてみましょう。

2023年8月24日、都立病院に救急搬送され、検査後にICUに入った私は、九死に一生を得て、9月末に退院。10月は、自宅療養を続けながら、大動脈解離の再発防止対策として、左下腹部にある左脚を通っている大動脈にできた「瘤」の対応が求められていました。

手術をするとしても難しい部位なので、できる施設は限られています。

私は都立病院で、手術の上手い私立病院を紹介してもらい、診察を受けました。そのときに、都立病院からの申し送りデータを観た心臓血管専門の医師から「よく生きていてくれました」と、九死に一生を得たことを再確認したのです。

私は、手術を受けるための事前検査で1週間、入院しました。そのときは、大動脈瘤のヨコにある大動脈にカテーテルという細い管を通して、プラチナ材でできた人口血管を埋め込むことを想定していました。

いろいろ検査して、わかったことが、いくつかありました。

カテーテルで心臓への血管を調べたところ「とてもきれい。50代前半の血管です」とのこと。それはうれしかったのですが、それではなぜ、脚の太ももから心臓の手前まで、大動脈が解離してしまったのでしょう。

先生は「理由はわかりません。なぜか、心臓の手前で亀裂が止まったとしか、いえません」と言われました。

命というものは、たぶん神仏から与えられたギフトなんです。だから、死に至る理由はわかっても、生き延びた理由はわからない。ただ、生きているという事実を喜ぶのみなんです。

また、もう一つ、重大なことがわかりました。都立病院では副腎に腫瘍があると判明し、その対応が必要になっていました。ところが、手術前の検査入院をした私立病院で、さらに肝臓と甲状腺に腫瘍がみつかったのです。

その3つの腫瘍への方針がさだまらなければ、大動脈瘤の手術はできません。

ただ私は、たまたま腫瘍が見つかったことを感謝していました。大動脈解離で死を迎えたら、発症して3日で人生が終わります。ところが、もし腫瘍が悪性だったとしても、少なくとも余命は数ヶ月あるはずです。

私は、ガンより急性大動脈解離の再発防止を優先したいと思っていました。

それで、レントゲンやら造影剤を入れたCTやら、超音波の検査やり、いろいろつくして「当面は、この腫瘍が大動脈に悪さをすることはないだろう」という結論、お墨付きをもらったのです。

大動脈瘤の位置は奥まっていて神経も入り組んでいます。とても難しい手術であり、さまざまな副作用もあることなど、ネガティブな説明をたくさんうけました。でも、最初から結論は決まっていました。

それで先生には「どんなにリスクがあっても手術してください」とお伝えしました。二度とICUには戻りたくありません。何とか生き延びたのだから、さらに生きるためなら何でもしようと、腹をくくっていたのです。

また、直観として「この病院なら大丈夫」という確信もありました。

あとでたわかったことですが、この私立の大学病院は、尊敬していたアントレプレナーシップで有名なIさんが、二度、手術された病院でした。Iさんは、千葉の国立病院から、この私立病院を紹介してもらったそうです。

手術日は、2023年11月21日と決まり、18日から再入院することになりました。私の頭のなかは、手術が終わったらやりたいことで満たされていきました。希望がわいてきたのです。

2024年1月20日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

商標登録証

みなさん、お元気ですか。

ついに、特許庁から「大吉くじ®」の商標登録証が届きました。有限会社フジヤマコムさんと共同で登録したもので、弁理士事務所のプロテックさんに、拒絶理由への対応をお願いして実現した「快挙」になります。

2024年4月から、パズル小説®、謎解きクロス®ともからませ事業化していきます。大吉くじは、みんなの希望です。

2024年1月18日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

起死回生(3)

新年、あけましておめでとうございます。パラダイムシフトが起きているなかで迎えた元旦、書初め、2024年初の通院と、初詣は除いて、だいたいのイベントを終えて、ようやく一息ついています。

今年も、厳しい時代は続くと思いますが、みなさん、身体に注意して、健康第一でお過ごしください。無理を重ねると、いつしか、私のように起死回生を狙う道しかなくなってしまいます。

さて、本文は、起死回生の3回目になります。前回は、途中で用事が入って、中断したままになっていました。しかし、年が変わったのですから、新たな気持ちで、起死回生について期しておきたいと思っています。

2023年8月24日に緊急入院してから、2024年1月7日現在、私はお酒を一滴も口にしていません。二十歳を迎えてから、私はお酒を呑まない休肝日は、累積しても30日に満たないと思います。

というのも、眠る前に、晩酌をするか、もの思いにふけりながらいっぱいやるか、いずれにしろ、今日が人生最期の日かもしれないと感じ、生きている幸せをかみしめなければ、寝床に入れなかったからです。

とくに、ここ10年は、一回に90分以上、睡眠することができなくなっていました。そう、今、急性大動脈解離での入院は必然だったと考えているのは、そんな自分の身体の構造が、それこそ身をもって感じていたからです。

ということで、今回は、ここまで。薬を飲み、軽いリハビリをして、無理ない程度に仕事をする時間です。

2024年1月7日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

起死回生(2)

療養中に、考えました。人間は、あっけなく死んでいくものなんだとわかった上で、それでも生きている間に何をしたいか、日々意識していこうと思っていました。

今しか生きられない宿命に生まれた自分。ただ、その今も、いずれ終わりが来ます。68年間、終わるということを経験せずに生きてきた自分は、何と幸運だったことか。

何の準備も、心構えもないまま「まだ先のこと」と思っているうちに、激痛に見舞われ、病院に搬送されてICUに入っていたのです。

寝返りも禁止された7日間。15分くらい眠っては目を覚まし、口を覆ったマスクを外そうとする。それに気づいた看護師が飛んできて、私を止めた。

「外したら、死にますよ」「生きましょう、頑張って」そのとき、私は悟りました。みんな、こうして死んでいくんだな、と。自ら、終わりにしてしまうのだな、と。

それくらい、生きるという選択肢は、肉体的に苦しかった。こんな苦しいことが続くなら、もう終わりにしたいと思っていたんです。

2023年12月19日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

起死回生(1)

2023年8月24日に、突然救急搬送され、ICUで7日間、生死の際まで行って幻覚をみていた私ですが、思い起こせば、その日は突然にやってきたわけではありません。半年前から血圧が高くなってサプリメントを飲んでいました。

この年の夏は地球沸騰といわれる極端気象で、東京も真夏日が続いていました。おまけに、仕事をしている事務所のエアコンが故障し、熱風だけでしのいでいました。半年前から右足がふくれ。足の爪の一部は壊死。

そこにコンサル業界の本の執筆が重なり、30年前のような忙しさ。どこまで肉体を酷使できるか、自分でも先が見えないまま、「これまでやってきたのだから、何とかできるだろう」と高をくくっていたのです。

正直、なめていました。こんなことでつぶれるわけにはいかないと、根拠のない自信をもって、突き進んでいたのです。その結果が、20代から走り続けた結果が、突然の急性大動脈解離だったのです。

ICUで、天井しか見られない時間を過ごしながら「ひょっとしたら、このまま死んでしまうのか」と気づいたのですが、すでに手遅れ。私は、自らのチカラで、この危機を乗り切ることしかできませんでした。

しかも、おそらく、たまたま、生き延びたにすぎません。帝京大学医学部の教授に言われました。「ほら、心臓の手前から両足の部位まで、大動脈が避けているでしょう。これが、心臓の手前で、とまっている」と。

私は「なぜ、心臓の手前で?」と聞くと教授は「理由は、わかりません。心臓のところも、裂けていても不思議はなかった。だから、九死に一生を得たということになります」と。本当に、危なかった。

そして、ICUから出て1ヶ月ほど安静にして快復を待ち、退院。その後、みつかった身体の「懸念材料」を、具体的なは3ヶ所で発見された腫瘍の検査と、それが終わってから「カテーテル」を通して欠陥の状態を調べました。

欠陥が上部でなければ、退院しても、いつかまた大動脈解離になるか、知れたものではありません。もちろん、塩分を控え、高血圧を治し、不満状態を変換するなどの体質改善を勧めながら、最後の難関に向かいました。

それは、左足の付け根にあった「大動脈瘤」の処置です。大きさが3.5センチもあり、いつ破裂してもおかしくない状態。ここを適切に処置しておかなければ、社会復帰はありえません。

私は、帝京大学医学部の医師のみなさんに命運を託し、開腹手術にチャレンジすることにしました。大変難しい場所にできた大動脈瘤なので「決して簡単な手術ではなく、後遺症のリスクも1割と、この手のものにしては高い」とのこと。

それでも、私の答えは決まっていました。せっかく九死に一生を得ることができたのだから、起死回生ができる身体にするためにも、医師の腕にすがることにしようと、それこそ腹をくくっていたのです。

2023年12月19日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

九死に一生(その5)

急性大動脈解離でICUに入り、寝返り現金の絶対安静、家族もふくめての面かい謝絶で外界から閉じた時空間で、私は7日間、暮らしました。

ICUには、特別の時間が流れています。私は、身体の自由を奪われ、生死を何かに託していました。生きていることが当たり前だった場所から、いつ、生きるのを止めてもいい場所に移っていたのです。

それで、病状が落ち着いているときには、何もすることがないので、しかも未来について考える気力がわいてこないので、どうしても過去のことにおもいを馳せることになります。

とくに「死」と向き合っていた時代を想い出そうとしていました。せっかく「死」が向こうからやってきているのに、それについて何も考えないというのも、間が抜けています。

私は、生れてから順番に、いつ、死ぬことを意識したのか、思い出していました。おそらく、最初に「死」について考えたのは、小学校1年か2年生のときでした。

私は、鉄棒ができなかったので、一人で逆上がりの練習をしていました。何度目か、冷たい鉄棒を握る手がかじかんできて、身体が空中にあるときに、手が離れました。落ちてしまった私は、地面に後頭部をぶつけてしまったのです。

私は、すり足で家に帰りました。後頭部に「瘤」はありません。そのことが気になってしまい、食事ものどを通りません。夜、床についても、目が冴えてしまって眠れず、やぐてしくしくと泣き始めました。

テレビ番組でみたのか、誰かに教わったのか。私は「後頭部を打つと内出血で死ぬことがあるむという知識を持っていました。幼い子どもは、このまま死んでしまうことを確信していたのです。

母が、眠らない私に気づき、声をかけました。「どうしたの? 何かあったの?」私はね鉄棒から落ちたことを報告し、「死んでしまうかもしれない。怖いよう」と訴えました。

死ぬことが、どのようなことなのか、まだ考えたこともなかったのですが、直観的に「死んでしまう」と感じ、不安で気が狂いそうになりました。母は、私を抱き締め、大きな温かい手で後頭部をなでてくれました。

「痛いの痛いの、飛んでいけ」

翌朝、目覚めたとき、眠った場所に戻れたことが、とても幸せなことだと理解しました。

あれは、小学4年か5年生の夏。乳首が硬く、ふくらんでいることに気づきました。これもテレビからの知識だと思いますが、私は自分が乳がんになったと思い、愕然としました。

何日も悩み、百科事典で「がん」を調べ、図書館に行き、近くの書店で大人が読むがんの本を読みました。わからない漢字がたくさんあるものの、だいたいのことは、わかりました。

1週間も経つと、乳首のしこりは、もっと大きくなっていました。泣き虫だった私は、一人、ふさいでいました。母は「風邪」だと思い、小学校を休みにして、かかりつけ医の片田先生のところに連れて行きました。

片田先生は私に「どうしました」と聞くので、私はシャツをたくしあげて胸を突き出し、「乳がんになりました」と伝えました。

先生は「ほう、乳がんですか。どれどれ」と胸に触れ、乳首をつまんで「大丈夫、これは乳がんではないから、心配はいらないよ」とにっこり。1週間ほどふさぎ込み、死んでしまうのかと考えていた私は、そこで救われたのです。

中学1年か2年の初夏。私は、最寄り駅である東上線の上板橋駅から小川町駅まで行き、そこから三峰口の峠に向かう山道に入りました。とくに登山用の服装はしていません。

小学生の頃、家族でピクニックに来たことを想い出し、一人で歩いてみたくなったのです。そして数時間かけて峠の頂まできて、景色に見とれてしまった。気が付くと、夕暮れ時になっていました。

もちろん、私は夜の山がどんなものか知りません。経験もありません。ただ、あわてて下山しなければいけないことは、わかっていました。小学生のときに一度歩いた山道とはいえ、懐中電灯もありません。

足元は、どんどん暗くなっていきました。幸い、月明りがあったので、まったくの暗闇にはなりませんが、場所によっては足元どころか、数メートル先に黒いカーテンが引かれたようになっています。

灯りのある山小屋も、売店も、伝統のある電信柱ねない山道を、私は、ゆっくり、足場を確認しながら下っていきました。

私は、「死」を意識していました。今度は、助けてくれる母も、かかりつけのお医者さんもいません。携帯電話もなく、山道に自販機はありません。ただ、知識が少しありました。

整備されているハイキング用の山道から外れてはいけないこと。そして、下山していくと、どこかで舗装されている車道の近くに出る。その後、しばらく車道と並行して山道が続く。そんな場所がありました。

2~3時間ほど下山すると、車道を走る車のライトが空の空気を照らして動いていくのが見えました。まで少し距離はありましたが、車道には街灯があったのです。私はハイキング道を逸れ、山肌を上り始めました。

その後は、残念ながら覚えていないのですが、長ズボンはズタズタになり、漁ては傷だらけになっているものの、私は車道を歩いていました。車とすれ違った記憶はありませんが、やがて東上線の駅に着くことは確信していました。

駅舎は無人で、もう終電はありませんでしたが、そこは見知った場所。そこで夜が明けるのを待ち、始発で帰りました。

その頃、私は父が所有する3畳ひと間、トイレ共用、炊事施設はないアパートで一人ぐらしをしていましたから、三度目の「死」を考える時間を持ったことは、父も母も気づきませんでした。

2023年11月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

九死に一生(その4)

人は誰でも、「死」というものがあることを知っていますし、いずれ自分も「死」の瞬間を迎えることは、直観的にわかっています。ただ、それが「どんな瞬間」なのかは、想像できません。

私も、2023年8月24日にICUに運ばれ、身動きができない状態に置かれるまで、数々の「人の死」に向き合ってきたにもかかわらず、死ぬということの本質がわかっていませんでした。

死について考えてしまうと、結局「真で見るまではわからない」し、死んでしまっては「もう何もわからない」から。結局、自分は失笑、生きている間は、「死」について理解することはないだろうと、思っていました。

しかし、ICUで私は、明らかに「死」の姿に触れていました。「あ、このまま終わるのかもしれない」と思える瞬間が、何度か、あったからです。すぐ目の前に「終焉」がありました。

あ、ここに陥ると、市ぬな、と思ったのです。それは、とても苦しい時間でした。息をしたくても身体が動かず、脳内に快楽物質も出ず、ひたすら苦しい。これが続くなら、もう耐えられない。

天国も地獄もなく、ただ「終わってほしい」という感覚。もう、止めたいという感覚。それが「死」の正体なのだと思いました。生きるのを止めたい、そう感じたら、その向こうに「死」があるとわかるのです。

他の人は、もともと、どう「死」を迎えたのか、私は知ることはできません。しかし、私のとっての「死」は、単純に「もう生きている状態を止めたい」と感じたときに、そこに姿を現した気がしています。

私は、1日、90分しか眠れません。もう20年くらい、そんな生活をしています。もちろん、90分では休息が足りませんので、起きてトイレに息、水を飲んだら、再びベッドに入ります。そこでまた、90分間ほど眠ります。

それを3~4回、くりかえすと、目をつむっても眠れなくなります。あ、今日はもう眠れない、と思ったら、それが起床の時、そんな生活を続けてきました。

ところが、ICUでは、90分も眠ることができません。24時間、食事をすることも、トイレに行くことも(膀胱から直接排尿されるので尿瓶も必要ありません)原稿を書くこともありません。

ひたすら、じっとしています。ですから、いつも起きているし、いつも眠っている状態。そこには考えている自分しかいませんでした。しかも、考えたことを「記録に残す」こともできません。

このまま、ずっとICUに居続けるのかもしれないと考えた時、「死」というものが身近にいました。死は、生きることができなくなることだったんです。当たり前のようですが、2023年8月24日まで、そのことを私は知りませんでした。

そして、「生きることができないかもしれない」から「生きることを止めたい」と思ったとき、私には「生きたい」という力が、ぜんぜん沸いてこなかったのです。それまでは、ここで死んでなるものかという思いがあった。

しかし、ICUで3日目あたりに、「もういいや。生きるのをやめてもいい」という気になっていたのです。そんなときに、苦痛が襲い、息ができなくなり、もがいていると、自然に「死にたい」と思っていたのです。

そして、それを救ってくれたのが「廣川さん、生きましょう。もっと生きてください。ここであきらめたら、死んでしまうんです」と、叫んでくれた若い看護師さんでした。

私は、「ああ、ここで終わるのか」という思い、「終わりにしたい」という思いでいた自分に、怒っていました。外から見たら、きっと自分は「死んでいく」ように見えていたのです。

自分もまた、「終わりでいい」と思い、「終わりが来た」と思っていました。そして、ドストエフスキーが語ったように「一生の夢」を見ることなく、プツンと生命の糸が切れて、終わるのだと感じていました。

それは、日々、眠るときと同じかもしれません。自分は、毎日、疲れ果てて眠るときに、「死んでいた」のではなかったか。だから、90分後に目を覚ました時、自然に「ほっ」として、起きていたのではなかったか。

起きれなくなる、それが「死」の正体。

そんなことを考えながら、私は「廣川さん、ちゃんと呼吸してください。深く吸って、吐いて。吸って、吐いて」「どうしました」「血中酸素濃度低下」「ほんとだ」「呼吸していません」「廣川さん、もっと生きましょう」

男性と女性の看護師さんが、それからつきっきりで、私の枕元で「吸って」「吐いて」と繰り返してくれました。たぶん、1時間からいね私は合いの手に合わせて、酸素マスクから出てくる酸素を吸い続けました。

その呼吸が、あまりにも強く、深く、長時間続いたせいで、私の肺はあちこちで敗れ、血液がたまり、猛烈に痛み始めました。翌朝、検査をすると、肺の20%ほど「水」がたまっていると診断されました。

この「水」が引くまで、1カ月かかったのです。しかし、そこで何かを乗り越えられたおかげで、何とか生き延びることができたのだと、今はわかっています。

ICUと、医師と看護師さんちたが、私を救ってくれたのです。

2023年11月12日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

九死に一生(その3)

2023年8月24日に急性大動脈解離でICUに運ばれた私は、24時間絶対安静を強いられる中、激痛を緩和してくれるモルヒネのせいで、さまざまな幻覚を見るようになりました。

私がみている幻覚について、精神科の女医さんが解説してくれました。「夢から覚めても、幻覚は実際にみえるものです。もちろん廣川さんにしかみえていませんが、薬がぬけていけば、自然にみえなくなるものです」

キラキラした瞳で「どんなふうにみえているか、教えて」と女医さんは小首をかしげる。彼女との距離は、規則なのか、2メートルほどあった。それ以上近づくと、私の心の範疇に入り込んでしまうのかもしれません。

私は、「カーテンの上、金具のあるはずのところには、筆で漢字4文字の言葉が書いてあります。崩してあるから正確には読めませんが、なんだか京都の禅寺で写生をした般若心経ではないか。そんな気がしています」と応えました。

白衣の彼女は、す、と半歩だけ前に来て、私の目を覗き込んだ。私は、夜に見ていた夢の話をしたかったが、どんな内容だったか、すでに忘却していた。それで、夜中に感じていたことを話しました。

いままで、いつも情報につつまれていました。朝起きればBGMを流し、スマホのメールをチェックする。新聞を読み、気になる記事があればテレビをつけてNHKのデジタルかBS1でニュースを見ていました。

本も雑誌もSNSも、見たい時に開くことができた。それが当たり前の日常として、ずっと続いていたんです。ところが、ICUに入ってから、すべての情報が遮断されています。今、何時なのかもわからない。

朝食も昼食も夕食もなく、飲み会もない。ただ、絶対安静の姿勢でいる。こうして先生と話すときは鼻から酸素を吸っているけど、夜は酸素マスクでがんじがらめになっている。

ICUに入った当初は、酸素マスクや点滴や、じっとしていること自体が不自由で、逃げ出したいと感じていました。でも、今は違う。私が耐えられないのは、情報の遮断です。これまで、したことも考えたこともない状態でした。

不自由で息が詰まるのではなく、何もない真っ暗闇のなかにいる感覚。情報がない世界、それが死ぬということなんだと意識すると、ぞっとしました。今、まさに暗闇のどん底にいる自分が意識されてきたのです。

もう、ここから出たい。情報に触れたい。生きたいところに行きたい。人に会いたい。想い出のなか、夢のなかではなく、街を歩き、空を見上げ、自由に歩き回りたい。そして好きな人たちの声を聴き、話しもしたい。

煎じ詰めると、私は「もっと生きたい」と、「まだ死にたくない」と、女医さんに訴えていたのです。逆に言えば、情報から遮断されていることそのものが「黄泉の国の入口」になると気づいていたことになります。

女医さんが、「お仕事は?」と聞きました。これまで「ビジネス作家」と応じていたのですが、黄泉の国の入口でうろうろしている私は、「しがない物書きです」と応えました。一度、言ってみたかったのです。

「凄い。どんなものを書かれるのですか」私は、迷うことなく「パズル小説」と応えました。「あら、面白い。私、パズル大好き」私は、パズル小説について、かんたんに説明しました。

ところが、ICUでは絶対安静なので、しばらく、といってもたぶん1分もたたないうちに、ピコピコ音がして看護師さんが飛んできました。「血圧、上がってます」女医さんが謝り、「また来ます」と小さく手を振りました。

次に、彼女が姿をみせるのはICUを出て一般病棟のベッドに移ってからのこと。私は、まだ絶対安静のままでしたが、ひとまず生命の危機は去り、意識も明確になり、幻覚は収まっていました。

それから3回、彼女は話に来てくれました。私は、主に自分の生い立ちについてしゃべりました。彼女に、自分の存在について、原点となっている経験について、聞いてほしかったのでしょう。

「生きていて、よかった」と言われるたびに、私は嗚咽しました。言葉にできない何かを伝えたくて、それでもまったく伝わらないもどかしさもあり、涙があふれてきたのです。

彼女がいたのは1回10分程度と思うのですが、去ったあと、私は幻想にひたりました。マスクで顔はわかりませんでしたが、たとえば村上春樹のノルウェイの森にでてくる哀しい少女の雰囲気がありました。

生死の瀬戸際にありながら恋愛感情に励まされるのは一つの発見でもあり慰めでした。二度と戻りたくないICUを卒業(と私は言ってました)した後、私は恋愛経験をなぞることで、絶対安静を維持することができたのです。

そして、退院したらパズル小説「愛夢永遠」を書き始めようと強く願っていました。愛夢永遠というのは、20年前に書いた自伝小説で、メルマガで配信していました。ところが収集がつかなくなり、原稿用紙で500枚ほど書いて中断。

それを、今度はパズル小説にしてみようと思い立ったのです。我ながら、ほんとうに懲りないですね。

2023年11月11日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

九死に一生(その2)

2023年8月24日16時ころから、私は7日間、都立病院のICUに隔離され、絶対安静と面会謝絶の状態に入っていました。

仕事も途中で放り出し、生れて初めて救急車で救急病院に搬送されたのですが、アニサキスによる腹痛だと思っていたので「急性大動脈隔離」だったと知り、本当にびっくりしました。

まったく、そのような人生が待っているとは考えてもいなかったからです。亡き母を二度、救急車で搬送したときは、息子として付き添っている立場。そのときは、自分が搬送される未来があるとはつゆ、知りません。

それまでは、テレビのニュースや映画のワンシーンでしか見たことのないICUに、自分が運ばれていくなんてことも、考えたことはなかったのです。とうに還暦を過ぎていたので、十分、ありうることだったのですが。

まず、おどろいたのが、右へも左へも寝返りが打てないコト。両手には点滴の針が刺さり、クチと鼻は透明な酸素マスクで固められています。水を飲む場合だけ、外されるマスクは、本当に「邪魔くさい」ものでした。

ICUのベッドに横たわったときは看護師さんに「ここが有名なICUなんですね」などと余裕で減らず口をたたいていましたが、次第に「これは大変なことになった」と自覚していきました。

初日は(その1)で記したように、このまま眠ったら死んでしまうのではないかという不安と緊張から、興奮して一睡もできませんでした。そして、たぶん何百回、何千回と「夢」を見たと思います。

ロシアの文豪ドストエフスキーのデビュー作「貧しい人々」か、獄中の出来事を描いた「死の家の記録」か、あるいはそのどちらかの「あとがき」で読んだのかは定かではありませんが、そこにこんなことが描いてありました。

ドストエフスキーは、学生のときに書いた「貧しい人々」がベストセラーとなり文壇デビューしたわけですが、その後、「無神論者」として、ニヒリズムに侵されて、時の政権への反対運動にみを投じます。

ところが、逮捕され、獄中で様々な犯罪者たちと出会い、そのあげく非民主的な差異版で「死刑」を宣告されました。そして、縛り首になる日がきました。

神父に最後の説教を受け、目隠しをされて13階段を上り、首に縄を回され、あとは床が抜けるだけという状態。その13階段をゆっくりと歩いていく数分間に、ドストエフスキーは、それまでの自分の人生についての夢をみたのです。

その数分間は、無限に近い「夢の時間」だったそうです。

そのエピソードを知ってから、私はこう確信していました。死ぬときは、自分も人生をふり返り、たくさんの夢をみるに違いない……しかし、ICUで絶対安静にしていた私は、人生を夢でふり返ることはありませんでした。

代わりに、今まで見た記憶がない、キラキラしてサイケデリック調の世界に息、そこで何かを作っているシーンや、みたこともない人にプレゼンをしているシーンや、凄い物語を思い付いてノートに書いているシーンをみました。

ところが、そのサイケ調ではあるものの、やたりリアルで細かい字まで見えている「成果物」を、どこにも保存することができません。ノートをしまう引き出しも、パソコンも、伝えるスマホもありません。

あ、どうしよう。せっかく思いついたのに、保存がきかない。きっと目を覚ましたら、何を創り出したのか忘れているのだろうな、という意識が沸き上がり、そこで目を開けると、ICUの天井があるのです。

天井には緊急手術用の大きな照明が1つあり、それは幸いなことに私のいた天井で光ることはありませんでしたが、何だか脳に直接働きかけて未来の夢をみさせている新しい装置のように感じていました。

ああ、そうだ。私は、きっと何も残せないまま死んでいくに違いない。死ぬことは、成果を保存できずに、ただ、消えていくことなのか。死にたくない。もっと何かを作り、それを保存して、みんなに伝えたい。

そう考えたとき、いつも強い不安に襲われました。このまま、プツンと世界が終わってしまう。何も遺すことなく、自分が生み出した世界を誰に伝えられることもなく、ただ終わってしまう。それが、今、目の前にある現実なんだ。

そして、私は手元にあるナースコールを押すか、あるいは狂ったように酸素マスクを外してしまうか、衝動的に何らかのアクションをとつていました。ICUの看護師さんは、いつも、何百、何千回と、いつも飛んできてくれたのです。

ICUで隔離されてから二日目か三日目、カーテンをつるしている金具のところに異変があるのに気づきました。私は、看護師さんに聞きました。「あそこにある文字は何ですか」

看護師さんは「ああ、文字が見えますか。それは幻覚です」と言います。「え? 看護師さんには見えないのですか」「はい。私には見えません」「そんな…では、カーテンの下にある、ひらひらしているその文字は、ありますよね」

「ああ、カーテンの影が文字に見えているのですね。それも幻覚です。気になりますか。」「はい」「興奮すると身体にさわりますから、専門のスタッフを呼んでおきます」「では、本当に幻覚なんですね」

それから小一時間もたたないうちに、白衣を着た、目を見るだけで美しさが匂い立つ精神科医がやってきて、私の話し相手になってくれました。彼女は、私が何をしている人か尋ね、根気よく、幻覚について聞いてくれたのです。

2023年11月10日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster