存在に理由は要らない

量子もつれは、本当に重要な仕掛けであり、存在の根幹を支えている原理なのだと、つくづく、感じている。つくづく。

光子が粒と波の両方の性質を併せ持つように、量子が基本定数の整数倍のポジションしかとれないように、量子もつれは、ほとんど「公理」というべき、世界の基本的な原理なのだと思っている。

たとえば。光子でも電子でもいいが、何かの素粒子αがあったとする。

その素粒子αは、たとえば銀河系のま、私たちの恒星である「太陽」から発せられているとする。

太陽で放出された素粒子αが、地球で観測された素粒子αと「同一」であるということを保証するために、量子もつれがあるのだと、私は考えている。

すぎた時間にかかわらず、移動した空間にかかわらず、素粒子αが、「同一」のものであるということを保証する仕掛けとして、量子もつれを理解する必要がある。

もし、量子もつれという現象がなかったとしたら、太陽で発射された素粒子αと、観測された素粒子αが「同一」であることを証明することはできない。

逆に、どんなに遠く離れていても、どんなに時間が経っていても、量子もつれという現象が確認されるなら、それは「瞬時」に情報を好感することができる。

時空特性によらない、独立した存在の「ペア」となっている。

実は、ペアと思えるのは観測者の視点であり、私の解釈によれば、「もともと同じ素粒子αを、別な手段で観測したにすぎない」ということになる。

同じ素粒子αを観測したのだから、素粒子αの渋滞を変えれば、遠く離れた「ペアの素粒子」に粒子もつれの現象が起こるのは、何の不思議も理屈もない。

だって「同じ」素粒子αなのだから。

わからない人には、今、私が描いていることが発見であることを認識できない。それでいいと私は思う。

でも10年後、量子コンピュータがそれなりの成果を上げられるまで成長したころに「あれ、こいつの言っていること、当たったな」とわかることになるはず。

そんなことを考えて、眠りにつく日々もまた、楽しい。

2025年2月5日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

プラズマ宇宙論なのか?

宇宙論の話。

ネットで、最新の宇宙に置かれた望遠鏡で観測したら、宇宙誕生時にビッグバンが起きたという宇宙論と矛盾する銀河が多数みつかったというビデオを観てしまった。ここ数年の観測成果になる。興奮した。

ビッグバンは、ついつい採用したくなるコンセプトだが、どこか違和感があった。だが、ビッグバン理論の代わりにプラズマ宇宙論を採用しても、違和感は消えない。

宇宙は、量子もつれによって、一つにまとまっている。10次元の構造から、4次元だけが「観測」できる領域だが、隠されている6次元の構造によって、量子もつれも起きるし、4次元で空間が歪んでいる現宇宙が観測される。

4次元&歪んだ構造のなかでは光速には上限があるが、量子レベルでは、残りの6次元構造の作用で、宇宙全体が「統一された理論」に従う。

その理論とは、1次元の行列になるので、大変複雑。ほんのささいなことを計算して4次元時空に落とし込むだけで、スーパーコンピュータを使わないと解が得られない。

もちろん、量子コンピュータが実現しても、10次元の行列を解くのは、かんたんな現実の記述でも数時間かかるのではないだろうか。

ただ、現実は記述できなくても、理論的な構造は想像できるので、近似値として10次元を4次元におとしこんで、新しい宇宙論を導くことができるだろう。

その結果、ビッグバン理論では説明のできない遠い銀河の存在も、説明できるようになるはず。

たぶん、あと30年もあれば、量子コンピュータを連ねれば、10次元の行列方程式を解く超量子AIが生まれるだろう。

残念ながら、それまでは、私は生きていない。来年だって、ちょっと心配なくらいだけれど、科学の未来を想像しながら、今を生きていられることのほうが、実際の「解答」を目にするよりも、重要だとわかっている。

小学6年生のとき、わくわくして読んだビッグバン理論や、アインシュタインの一般相対性理論の本(だいたいブルーバックス)を、50年経って、じっくりと漁りなおそうと思っている。

2025年2月4日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster

見えるか、見えないか

絵というものは、不思議なものである。

同じ絵を観ていても、感じられる内容、質、それぞれの受け手で千差万別。そんななかで、私は、最近なのだが「ぼくは絵を見ることができる」と自信を深めてしまっている。

本当に、自分では言いにくいのだが、私の見えている世界が、みなさんの見えている世界と、少し違っているのかもしれないと、本気で気づいてしまった気になっている。

もちろん確かめようがないのだが、私は、絵を描くのは下手くそだが、観るのはうまい。これは、若いころから、よく言われてきたことだ。

たとえば銀ぞの吉井画廊でスーチーヌの展覧会が開かれたとき。私は、スーチーヌの色彩の美しさに引き込まれた。心を奪われてしまった。とくに、スーチーヌが自ら首をひねったと思われる「ほろほろ鳥」には驚いた。

たぶん高校2年生だったと思うが、授業をサボって3日間ほど通い詰めた。すると支配人から声を掛けられた。

「君、学生さんだよね。見えるの?」

最初は何のことかわからなかったが、私には鮮やかな色彩に思われたスーチーヌの絵が、多くの人は、その色彩の美しさに気付かず「ゴッホのようだ」という感想をもらうという。

そこから、吉井画廊の支配人だったと思うが、面白い個展があると自宅に案内の封書をもらうようになった。確かに、私には「見えていた」のである。

その後、50年もの歳月を経て、九死に一生を得た私は、改めて「臨死体験」で色彩の狂乱のなかでのたうちまわっていたとき、幻覚を体験しながら、本当にたくさんの色彩を体感していた。

そして、改めて今、大好きなスターレの絵を見ていて「この絵の良さがわかるなら、いずれ、こういう絵が描けるようになるのではないか」という、希望の光を観ていることになる。

私は、観ることができる。私が観て「いい」と思える絵があったら、私と似たような色彩感覚がある人なら、きっと気に入ってくれるはず、と、今は思っている。だから、いっそ晩年は、画家として大成しようと、本気で考えている。

2025年2月2日 | カテゴリー : 未分類 | 投稿者 : wpmaster